トップQs
タイムライン
チャット
視点

林希逸

ウィキペディアから

Remove ads

林 希逸(りん きいつ、1193年 - 1271年[1])は、中国南宋儒者。主著に三教合一的な『老子鬳齋口義』(ろうしけんさいこうぎ/くぎ)『荘子鬳齋口義』があり、中国よりも江戸時代日本で盛んに読まれた。

人物

宋元学案』巻47や『万姓統譜中国語版[2]、『閩中理学淵源考[3]に短い伝がある。

粛翁竹渓鬳齋[4]福清(現福建省)の人。端平2年(1235年進士となり[4]秘省正字・司農少卿・中書舎人などを務めた[2]

子孫に渡日僧の即非如一がいる[5]

著作・学問

老子』『荘子』『列子』に対する注釈書『老子鬳齋口義』『荘子鬳齋口義』『列子鬳齋口義』(通称『三子口義』[6]、伝本によって題が異なる場合あり)があり、「老合一」「荘合一」「老荘分離」的な解釈を特徴とする[7][8]

その他の現存著作に『竹渓膚斎続集』[4]、『考工記解』[4]枯崖円悟『枯崖漫録』跋[9]劉翼『心游摘稿』序[10]がある。散佚著作に『易義』『春秋伝』がある[11]

林艾軒中国語版の学統(艾軒学派)に属する[4][12]。艾軒は程門の後裔であり朱熹の知人でもある[13]。艾軒学派は次第に三教合一的になり[14]、特に希逸は大慧宗杲看話禅にも通じていた[15]

日本における受容

江戸時代には、三子口義、なかでも儒老合一的な『老子鬳齋口義』が盛んに読まれた[16]。そのきっかけは林羅山である[16]元和4年(1618年)、羅山は『老子鬳齋口義』に訓点(道春点)と頭注、序を附して出版した[17]。さらに正保2年(1645年)、羅山は同書にもとづく和文注釈書『老子抄解』を執筆した[18]

三子口義の前に主流だった注は、『老子』は河上公注、『荘子』は郭象注、『列子』は張湛中国語版注だった[16][19]。その中で、惟肖得巌五山文学僧が三子口義を先んじて受容していた[19][20]。羅山が三子口義と出会ったのも、14歳のとき建仁寺英甫永雄のもと『荘子鬳齋口義』を講読したのがきっかけだった[21]

三子口義が主流の注になると、佚斎樗山田舎荘子』などにもその解釈が反映された[22]。一方、陳元贇[23]貝原益軒[24]太宰春台徂徠学派[25][26]東条一堂折衷学派[26]、三子口義の解釈を批判した。

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads