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柳敬
朝鮮民主主義人民共和国の政治家、軍人 ウィキペディアから
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柳敬(류경、リュギョン[1][2]、生年不明 - 2011年2月)は、朝鮮民主主義人民共和国の政治家、軍人。国家安全保衛部(国家保衛省の前身)副部長、朝鮮人民軍上将を務めた。日本では、2002年(平成14年)9月の日朝首脳会談のお膳立てをした「ミスターX」として知られる[3][4]。2011年初頭に失脚し、銃殺刑に処された[5][6]。
生涯
要約
視点
外交分野での活躍
柳敬の生い立ちについては不明である。ただし北朝鮮の資料によると、2002年の日朝首脳会談(1回目)で彼の諜報活動が成果を挙げたと示している[注釈 1]。日本側の報道では同首脳会談実現のための秘密交渉を担った人物として知られる[3][4]。その際、カウンターパートであった日本国外務省アジア大洋州局長の田中均に対して名前すら明かさなかったため、日本政府内で「ミスターX」と呼ばれていたことも知られている[2][3][4]。日朝首脳会談において北朝鮮側に有利な環境をつくったと評価され、この頃より当時の最高指導者である金正日総書記の腹心として台頭したとされる[5]。柳敬は、その実力を認められ、この協議の場で日本側の要求に即答することを許されるほどの裁量権を与えられていたといわれる[8]。また、体制への忠誠心が厚く、金正日から絶大な信頼を得ており、金正日の義弟にあたる張成沢を含めた側近の動向を監視させてもいた[6]。国家安全保衛部の副部長のなかでも最も強い権限をもち、「金総書記と2人きりで酒を酌み交わす仲」と呼ばれた[3][注釈 2]。国家安全保衛部は、「金王朝」を支えるために、反体制派の政治犯やスパイ、不満分子を摘発する秘密警察を束ねる機関で、保衛部によって逮捕された場合には拷問をともなう苛烈な取り調べが行われることで知られている[4]。
2008年6月、中国の北京市で開かれた日朝実務者協議では、北朝鮮による日本人拉致問題について、日本側から、全ての拉致被害者の帰還と真相の究明、被疑者の引渡しを改めて求めるとともに、北朝鮮側が拉致問題を含む両国間の諸懸案の解決に向けて努力する場合、日本側も北朝鮮に対してとっている制裁措置等の一部を解除する用意があることを伝え、北朝鮮側の具体的行動を求めた[9]。その結果、北朝鮮側は、「拉致は解決済み」という従来の見解を若干見直して、今後拉致問題の解決に向けた具体的行動をとるため、再調査を実施することを約束した[9][注釈 3]。この時点では柳敬はまだ健在であり、水面下での交渉も進んでいた[4]。
2009年3月17日、彼はアメリカ合衆国の女性ジャーナリスト2人の拉致を指示した[5]。柳敬は、テレビ局に属する2人がインタビューのため中朝国境に向かうという情報を得て、中国在住の朝鮮族を買収し、観光ガイドを装って記者2人を豆満江流域に連れていき、あたかも北朝鮮領内に入ったように錯覚させた上で、軍人も動員して北朝鮮に連行した[5]。バラク・オバマ合衆国大統領は、彼女たちの救済のためビル・クリントン元大統領を平壌に派遣したが、その際、クリントンが金正日総書記の面前で頭を下げたとして大きく喧伝された[5]。柳敬の「功績」は表彰され、2つの共和国英雄称号を授けられた[3][5]。
粛清
2009年から2010年にかけて、国家安全保障部は韓国の諜報機関である国家情報院(国情院)と秘密裏に接触し[10]、金正日総書記と李明博韓国大統領との南北首脳会談開催を模索していた[11]。2010年12月には、ソウルを訪問して国情院次長の金塾(キムスク)らと直接会談した[1][注釈 4]。しかし、12月5日、柳敬は、李大統領から面会を断られ、十分な成果が得られないまま北朝鮮に帰国した[6][注釈 5]。このとき、柳敬はソウル滞在を1日延長して李明博と面会するために粘ったが、帰国後に提出した報告書でその際の行き先をきちんと記載しなかったことが問題視された[6][11]。アメリカ中央情報局(CIA)や国情院の情報によれば、柳敬らの報告を受けた金正日が、「なぜ大統領に会えないとわかったら、さっさと荷物をまとめて帰ってこないのか。なぜ3日もいたのか」とひどく憤ったという[11]。
2011年2月、柳敬は失脚し、韓国に機密を漏らしたというスパイ容疑で逮捕され、処刑された[4][11][12]。ソウル滞在で延長した日程の詳細が不明だったことや、その後の捜査によって柳の自宅から数十万ドルの現金が発見されたこともあり[11]、在日コリアンだった柳敬の妻を除き、家族全員が平壌の自宅で銃殺された[6][13]。彼の夫人は朝鮮労働党の指示によって「強制離婚」させられ、生命だけは助かった[6][13][注釈 6] 。
「賄賂と不正蓄財」という容疑も加わった[5][12]。柳敬の粛清は公開処刑で、朝鮮労働党や朝鮮人民軍、北朝鮮政府の幹部らが注視する中で執り行われたという[5][注釈 7]。処刑方法は銃殺刑で、99発の銃弾が撃ち込まれたとも報道された[5]。北朝鮮当局はまた、処刑に立ち会った人々に忠誠の宣誓書のようなものを書くよう依頼したとも伝わっている[5]。
この粛清劇の背景には、張成沢がいたとみられている[3][6]。張成沢は、金正日より息子の金正恩への権力継承が円滑に進むため、先軍政治によって肥大化した朝鮮人民軍、独裁政治を支えてきた秘密警察である国家安全保衛部、それに、党や軍事の人事を一手に握り、最強の党機関として勢威を振るう労働党組織指導部の権力を削ぐよう、内命を下されていた[3]。張成沢は、この命令を忠実に守った[3]。組織指導部の権力縮小は、李勇哲(2010年4月に心筋梗塞で死去)と李済剛(2010年6月に交通事故で死去)の相次ぐ死によって実現したが、この不審死の陰に張成沢がいることを知らない者は平壌にいなかったといわれている[注釈 8]。張成沢はまた、人民軍に対しては、その豊富な資金源を断つことによって軍の弱体化をはかった[14]。そして、国家安全保衛部の場合は、柳敬が標的となった[3]。最終的には、金正日が張成沢の報告を基に、権勢を振るう柳敬粛清の機会を得たというに等しい[11]。本来であれば、「反党反革命分子」を摘発し、「銃殺する側」の人間であった国家安全保衛部のナンバー3が、いともたやすく銃殺されてしまったわけである[12]。なお、すべては自身の義理の甥にあたる金正恩のために動いたはずの張成沢であったが、彼は2013年に「傲慢な態度」や「政治的野心を抱いている」ことなどを理由に、ほかならぬ金正恩によって粛清されている[12][14][注釈 9]。
柳敬の粛清の際、彼の部下たちも責任を問われたが、日本との連絡役を務めた1名のみは許されて「ストックホルム合意」に至るまでの一連の対日交渉にたずさわったという[4]。
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脚注
参考文献
関連項目
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