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森下貞三
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森下 貞三(もりした ていぞう、1892年〈明治25年〉8月20日[1] - 1988年〈昭和63年〉[2])は、日本の紙芝居師。静岡県湯ヶ島出身[1]。街頭紙芝居の草分けとされる[3]。長男の森下貞義、三男の森下正雄らも紙芝居師であり、紙芝居一家として知られた[4]。
経歴
湯ヶ島で、農家の三男として誕生した[1]。16才で上京[1]。指物師としての修業を始めて、25歳のときに小石川に店を出し、家具製造の職についた[1][5]。
1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり[6]、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった[7][注 1]。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた[2][9]。
生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった[9]。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった[1][10]。紙芝居を休んだとき、その理由を子供たちに「風邪をひいた」と言い訳をしたときには、後日に森下が紙芝居を休んだとき、子供たちが連れ立って森下の家まで見舞いに訪れ、目頭を熱くさせた[1]。
また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれた[3]。
1932年(昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の文部政務次官、後に国務大臣・文部大臣となる安藤正純を会長に迎えた[2][11]。息子3人と娘婿も跡を継いでおり[9]、1952年(昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の正雄、翌1953年(昭和28年)の同コンクールでは長男の貞義が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった[4]。次男は戦死したが、戦地で紙芝居を演じ、戦友たちの心の拠り所となっていた[1]。
1981年(昭和56年)には、当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から、業界初となる勲六等瑞宝章を受章した[2][12]。90歳を過ぎた頃には、街頭で紙芝居を行うことはなくなったものの、学校や老人ホームを訪れて、紙芝居の披露を続けた[7]。95歳を迎える1987年(昭和62年)まで、紙芝居師として活躍した[9][12]。
その後も自作の創作紙芝居を携えて、ボランティアで老人ホームの慰問活動を行なっていたが[2][4]、翌1988年(昭和63年)、満96歳で死去した[12][13][注 2]。没後は、娘婿は紙芝居から離れたものの[14]、実子の貞義と正雄が跡を継いだ[4]。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している[3]。
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脚注
参考文献
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