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椎名順胤

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椎名 順胤(しいな ありたね、生没年不詳)は室町時代武将越中国人新川郡守護代。通称四郎次郎。

概要

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椎名氏の居城であった松倉城に立てられた『松倉城主の碑』。

越中国の椎名氏下総国千葉氏の分家の一つで、鎌倉時代に越中守護名越氏との縁から越中国に移住・土着した家である[1]。順胤は『太平記』に見える椎名孫八入道(胤明)、文永9年12月27日付関東裁許状などに見える椎名孫八郎頼胤、明徳3年の「相国寺供養記」で畠山家郎党として記される椎名次郎長胤らの子孫とみられる[2]

文明13年(1481年)には新川郡弘田荘を広福院雑掌に引き渡すよう、守護奉行人から椎名四郎次郎に命じられており、これによって四郎次郎=順胤が新川郡守護代の地位にあったことがわかる[3][4]。以後も弘田荘の荘務に携わっていたようで、文明17年(1485年)9月には細川某の安禅寺領新川郡市田郷押領に対し、椎名に停止を命じている[4]。一方、文明19年(1487年)6月には椎名虎松方被官が弘田荘で狼藉を行ったようで、隣接する婦負射水両郡守護代の神保長誠に狼藉の停止が命じられたとの記録がある[4]

文明15年(1483年)6月、足利義政が東山山荘に移った事を祝し、畠山政長は雑掌土肥六郎右衛門尉を派遣して太刀代を贈ったが、この時政長の被官として椎名某(順胤か)の名があげられている[5]。9月8日には畠山政長方として椎名某が上洛、将軍の足利義尚が見物するだろうという噂が記されているが、椎名は夜中に京都を通り過ぎて来た河内国楠葉遊佐長直と合流した。将軍義尚以下の注目を集めながら、椎名は甲(武者)200名しか率いていなかったとされ、あえて京を通り過ぎ義尚の見物を避けたようである[6]。楠葉への布陣は太田城の後詰めを目的としたものであったが、9月18日義就方の攻撃を受けて遊佐・椎名勢は敗北、椎名は早くも討ち死にしてしまった(犬田城の戦い[7]

犬田城の戦い後、明応2年(1493年)に畠山政長・遊佐長直らは再度河内遠征を行ったが、政長及び将軍足利義稙と対立していた政元は京都に残りクーデターを起こし(明応の政変)、孤立した政長らは正覚寺で自害した。その後、足利義材が越中国に下向したことが縁となって、政長の息子畠山尚慶(のちの尚順)は越中国の守護代家に偏諱を授けた[8][9]。これ以後、順胤の息子とみられる人物が椎名慶胤と名乗って椎名家を代表するようになり、椎名順胤は史料上で言及されなくなる[4]

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越中椎名家推定系図

 
 
 
 
椎名頼胤
(孫八)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椎名長胤
(次郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椎名順胤
(四郎次郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椎名慶胤
(新七郎)
 
 
 
椎名長常
 
 
 
 
 
椎名康胤
(右衛門大夫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長尾藤景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椎名重胤
 
椎名康次
常泉寺松室文寿
 
 
椎名景直
(小四郎)
 

[10][11]

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脚注

参考文献

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