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楠山秀吉
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楠山 秀吉(くすやま ひできち、1891年(明治24年)11月21日[1] - 1941年(昭和16年)12月3日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
1891年(明治24年)に和歌山県で生まれた[1]。大阪陸軍幼年学校[3]、陸軍士官学校第27期、陸軍大学校第39期卒業[1]。イギリス駐在を経て[2]、1934年(昭和9年)10月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任した[2]。陸大卒業後は補任課勤務が続き[3]、同課高級課員時代には辣腕を振るったことから「道鏡」のあだ名が付いたという[3]。1937年(昭和12年)10月8日に歩兵第31連隊長に転じ[2]、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級した[2]。1939年(昭和14年)3月に第9師団参謀長に就任した[2]。
1940年(昭和15年)12月2日に陸軍少将進級と同時に第1軍参謀長に着任[1][2]。田中隆吉の後を継いで「対伯工作」に関与し、1941年(昭和16年)9月11日に汾陽で山西軍側の趙承綬らと停戦協定を結んだ[4]。同年12月1日に独立混成第17旅団長(第13軍)に就任したが[1]、12月3日に華北で殉職した[1][2]。同日任陸軍中将[2]。
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脚注
参考文献
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