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正田マリエ

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正田 マリエ(しょうだ マリエ、1907年8月6日 - 没年不詳)はオーストリア出身の女性飛行家であり声楽家。日本国籍を得たのち飛行機操縦士の資格を取得、金髪の飛行士と呼ばれた[1]。再婚後の名は秋谷 マリエ(あきや マリエ)。

来歴

オーストリアのウィーンで1907年(明治40年)8月6日[2]Marie Dedouch として生まれる[3][4]。父の名はアルフレットと記録されており、マリエは長女。幼少時に一家でプラハに移り住み、七年間声楽を学んだとされる。同地のバレエ学校出身[5]で、プラハの大学に籍を置いていた群馬県出身の眼科医・正田政雄[6][注釈 1]と1926年(大正15年)1月に結婚[2]して日本国籍を取得。翌月来日。その翌年の1927年(昭和2年)5月に協議離婚[3]したが、以降も正田マリエを名乗った。

東京の上流家庭相手にドイツ語家庭教師をして生活していた中、1930年の秋にイギリスブルース夫人英語版が行った史上初の英国-日本間飛行や、エミー・ジョンソンの飛行などに刺激を受け、自身も飛行家となるため東京立川にあった日本飛行学校へ入校[4]。1932年(昭和7年)9月に飛行機操縦士の免許を取得した[8][注釈 2]。1934年(昭和9年)7月、当時女性の一等飛行士を認めていなかった[9]航空法の改正を求めて馬淵てふ子、長山雅英(きよ子)、松本きく子上仲鈴子、梅田芳江らと女子飛行士クラブを結成[10]。同年8月7日の朴敬元一周忌には、伏見善一飛行士の操縦するサルムソン機に乗って、墜落現場となった伊豆半島の玄岳まで弔問飛行を行った[11][注釈 3]

1933年(昭和8年)には故国訪問飛行用の機体制作資金を集めるため舞踊家として舞台に立った[1][13]が、故国への飛行は実現しなかったと推定される。その他声楽を学んだ経験を活かして歌も歌うなど舞台人としても活動した[注釈 4]。1935年(昭和10年)に秋谷光男[注釈 5]と再婚し秋谷マリエとなる[18]。同年8月20日には東日本都市訪問飛行と称して夫同乗のサルムソン機で東京を御前6時半に出発。仙台に立ち寄り、午後3時半ごろ新潟に到着した[19]。その後、1939年(昭和14年)9月の新聞に、映画監督の島津保次郎が池上の自宅で開いたシナリオ塾にマリエが参加しているとの記事がある[20]第二次大戦後の動向は判っていない。

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著書

  • 『正しき発声法』秋谷光男(雄文社書店)、1941年7月。 NCID BA30939225。全国書誌番号:46040240。

脚注

関連項目

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