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武周の皇帝、中国史上唯一の女帝。武士彠と楊氏の次女 ウィキペディアから
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(しょう、曌)。則天は諡号に由来した通称である(則天大聖皇帝、または則天順聖皇后に由来)。
則天皇后 武曌 | |
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武周 | |
皇帝 | |
王朝 | 武周 |
在位期間 |
天授元年9月9日 - 神龍元年1月24日 (690年10月16日 - 705年2月22日) |
都城 | 神都(洛陽) |
姓・諱 | 武媚→武照(武曌) |
諡号 |
則天大聖皇帝 則天順聖皇后 |
生年 |
武徳7年1月23日 (624年2月17日) |
没年 |
神龍元年11月26日 (705年12月16日) |
父 | 武士彠 |
母 | 楊夫人 |
陵墓 | 乾陵 |
年号 |
光宅:684年 垂拱:685年 - 688年 永昌:689年 載初:689年 - 690年 天授:690年 - 692年 如意:692年 長寿:692年 - 694年 延載:694年 証聖:695年 天冊万歳:695年 万歳登封:695年 - 696年 万歳通天:696年 - 697年 神功:697年 聖暦:698年 - 700年 久視:700年 - 701年 大足:701年 長安:701年 - 704年 |
※「曌」は「照」の則天文字。 |
日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来は「則天」と通称のみで姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている[注 1][注 2]。
利州都督武士彠と後妻の楊氏(楊達の娘)の間に次女として生まれ、諱は照。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。しかし、12歳のときに父が死去すると、武照は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。
貞観11年(637年)、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。
太宗の病重く重態に陥ると、看病した皇太子李治(後の高宗)と初対面し、皇太子に一目惚れされた。貞観23年(649年)太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。1年後、寺院を訪れた高宗との再会を果たした[1]。
その頃の高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
永徽6年(655年)6月、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相の韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。同年、中書舎人の李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗・崔義玄・袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。
この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良、高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した[注 3][注 4]。
10月13日(11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪[注 5]により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。なお、節操がなく、前後して父子二人の皇帝の後宮に入るという世論を忌避して、詔書には「事同政君」という。太宗の妃になったのは事実だが、早くも皇太子に下賜られた、という解釈である。
11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、惨殺した[注 6][注 7][注 8]。
武照は高宗に代わり、垂簾政治を行った[注 9]。武照は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と自身への忠誠心を重視した。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いたが、張説は評価の分かれる宰相である。
顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督の趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東・遼西の情勢はかえって悪化した。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武照は娘の太平公主や薛懐義・張易之・張昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために来俊臣・索元礼の徒ばかりか周興と『羅織経』の作者らのような元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に高宗は、宰相を招いて武照の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝の権力奪還を許さなかった[注 10]。
弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを理由に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。
武照の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武照に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武照が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相張説は黙って返答しなかった。
唐の宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[注 11]。
天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。
帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[注 12]。また、長安年間(701~704)に悲田養病坊を設置し、仏僧尼に運営を任せて貧窮孤老を救済させたが、これは光明皇后による悲田院・施薬院の設置にも影響を与えたとされる[2]。
武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣の狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[注 13]。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之・張昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相の張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は崩御し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。
遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。
武則天は女傑として長く人々の関心を集めてきたため、人柄を伝える多くの逸話が残っている。この項で記したもの以外に、本記事の注なども参照のこと。
武則天が生まれて間もない頃、袁天綱という名道士が来て彼女の相を占った際、人相を見た袁天綱が「この子供は必ずや天に昇るであろう」と述べたという伝承がある。その伝承によれば、父が将来の皇后となることを期待して武則天に高度な教育を与え、別名を媚と命名した理由には、乳児としての武則天の容姿が極めて美しかったことだけではなく、その予言を信じたこともあったとされる。
また、史書の伝えるところによれば、少女期の武照は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、そして聡明な頭脳を備えていたとのことである。
称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだとされる。顕慶4年(660年)[要出典]には皇帝と皇后をそれぞれ天皇と天后とした。この改称の狙いは、天皇と天后という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと尊号を改めさせることで「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」を「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」へと変貌させ、現状における自己の政治への介入状況を追認させることにあったと言われる。[要出典][3]地名の改称の例は洛陽を神都とした例や、自らの出身県である文水県を武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。
皇帝の諡号について、古から一字または二字の諡字を与え、「○皇帝」または「○○皇帝」と呼ばれていた。唐代初期にもこの習慣が続いた。最初は唐の高祖は「太武帝」と呼ばれ、太宗は「文帝」と呼ばれた。しかし674年(上元元年)に高宗と武則天は太宗の諡号を「文武聖皇帝」と改め、その後、清朝まで皇帝の諡号はますます長くなっていった。その結果、唐代以降の皇帝は諡号でなく廟号で呼ばれるようになった。
武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀や、本圀寺に使用されている。この改変は「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたものである。他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「曌」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。
武則天はまた元号も頻繁に変更した。元号に関しては下記の一覧を参照。
則天文字があるもの(*印の元号以下の使用例参照)は通常の文字に戻した。
則天武后は、自分の地位の脅威となる人物を殺害している。ライバルである王皇后と蕭淑妃を初めとする、多くの李唐の皇族およびその末裔(関連する人物は高祖の子十一男の韓王李元嘉 ・十四男の霍王李元軌・十八男の譙王李元名・十九男の魯王李霊夔 ・七女の常楽公主、太宗の子四男の魏王李泰・六男の蜀王李愔・七男の蒋王李惲・八男の越王李貞・十男の紀王李慎・十四男の曹王李明、高宗の子長男の燕王李忠・三男の沢王李上金・四男の許王李素節)は相次いで殺された。また大臣の長孫無忌・褚遂良・裴炎・上官儀・程務挺らを殺害した。
自分の親族に対しても、個人の好き嫌いで男女問わず殺害も行われた。その中には長男の李弘、次男の李賢、三男の李顕(中宗)の元妻趙氏、四男の李旦(睿宗)の妻劉氏・竇氏(玄宗の母)、次女の太平公主の元夫薛紹、孫の李重潤と李光順、孫娘の永泰公主、姪の魏国夫人賀蘭氏が含まれている。実家がある武氏の一族の中にも武元慶・武元爽・武惟良・武懐運・武延基・武攸曁の元妻も殺害された。
また、長女の安定公主も殺害されたという説もある。
唐高祖 李淵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)周顕祖 武華 | 韓王 李元嘉 | 霍王 李元軌 | 舒王 李元名 | 斉公 長孫晟 | 趙瓌 | 常楽公主 李氏 | 唐太宗 李世民 | 魯王 李霊夔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楚王 武士譲 | (追)周太祖 武士彠 | 上党公 李諶 | 黄国公 李譔 | 豫章王 李亶 | 趙公 長孫無忌 | 文徳皇后 長孫氏 | 廃后 王氏 | 范陽王 李藹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
善氏 | 武懐亮 | 魏王 武元爽 | 韓国夫人 武順 | 薛懐義 | 周則天皇帝 武照 | 唐高宗 李治 | 淑妃 蕭氏 | 越王 李貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武懐運 | 武懐道 | 魏王 武承嗣 | 賀蘭敏之 | 魏国夫人 賀蘭氏 | 城陽公主 李氏 | 安定公主 李氏 | 梁王 李忠 | 杞王 李上金 | 雍王 李素節 | 琅邪王 李沖 | 李規 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(前妻) | 定王 武攸曁 | 太平公主 李氏 | 薛紹 | 唐中宗 李顕 | 沛王 李賢 | (追)唐義宗 李弘 | 唐睿宗 李旦 | (九子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
魏王 武延基 | 永泰公主 李仙蕙 | 邵王 李重潤 | 唐殤帝 李重茂 | 義豊王 李光順 | (追)唐譲帝 李憲 | 唐玄宗 李隆基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開元4年(716年)に武則天の子であった太上皇の睿宗が没すると、玄宗は武則天の諡号から「皇帝」を除き、武則天の政策の否定や、彼女や武氏に粛清された人々の名誉回復に動き始めた[4]。
後世の中国社会や文人界においては、女性でありながら君権の上に君臨し、唐室の帝位を簒奪した武則天の政治的遍歴に対する評価はおおむね否定的であり続け、簒奪に失敗した韋后の行実と併せて武韋の禍と呼ばれるなど、負のイメージで語られることが多かった。治世中の事績に関しても、彼女が施政した時代に浮戸や逃戸が増大したこと、田籍の把握が等閑になって隠田の増加と均田制の実施困難を招いたこと、自身の氏族を要職に就けて政治をほしいままにしたことなどについて、現在も厳しい評価を受けている。
一方で、長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、貞観の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛び抜けていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。歴史上にも僅かながら、彼女について「不明というべからず」と評した南宋の洪邁(毛沢東が愛読)や「女中英主」と評価した清代の趙翼(現有制度の打破を叫んだ)のように、武則天に対して肯定的な評価を下した者も存在した。毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青に至っては、毛沢東の死後に後継者にならんとする野望を持っていたため、名実ともに中国の国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。江青と文革は共産党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された(参照)。
「日本」の国名について、『三國史記 巻第六 新羅本紀第六 文武王 上』には、「十年十二月。倭国更號日本。自言近日所出。以爲名。」とある。(三国史記 朝鮮史学会 昭和3年(1928年) p10 国立国会図書館デジタルコレクション 41/257 コマ)新羅の文武王10年は、西暦670年。
大形 徹はこれを「倭国あらためて日本となづく、自ら言う、 『日の出づる所に近く、以て名と為す』と」と読む。そしてこの記述は「宋、王溥撰『唐会要』(九六一成書)倭國」の項で「咸亨元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出、故號日本國、盖惡其名不雅而改之。 (咸亨元年(670年)三月、使いを遣わし、高麗を平(たいら)ぐるを賀(よみ)し、爾後継いで来たりて朝貢す。則天(在位(六九〇‐七〇五)の時、自ら言う「其の国、日の出づる所に近し、故に日本国と号す」と。盖し其の名の雅ならざるを悪(にく)みて之を改む)と、新唐書そのままの記述としている。」と記している。(大形 徹 『國號「日本」の「本」はどのような意味か』 漢字學研究 第八號 立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所 [編] 立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所発行 2020年 p75~76 file.jsp (ritsumei.ac.jp) )
さらに大形 徹は「唐代の発音は地方に残っている。唐代に日本の使節が中国に日本と決めたことを報告したとき、当時の中国人が発音したのが「ニッポン」だったのだろう。日本の使者は、日本国内では「ひのもと」あるいは「やまと」と呼んでいたのかもしれない。しかし、「日本」という漢字二文字を中国に持って行ったときに、「ニッポン」という発音を教えられたのではないかと思う。」と記している。(同書 p82)
『』は日本公開、「」は日本未公開の作品。
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