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浅井図南

江戸時代の医者(1706-1782) ウィキペディアから

浅井図南
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浅井 図南(あさい となん、宝永3年11月13日1706年12月17日) - 天明2年8月5日1782年9月11日))は、江戸時代中期の医者。名は政直、字は惟寅、通称は頼母幹亭篤敬斎とも号した。

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藤浪剛一『医家先哲肖像集』より浅井図南

人物

医師・浅井東軒(周迪、1672-1753)の子として生まれる[1][2]。生まれは、京都とも、長州ともいう[1][3]。幼名は冬至郎周北。医師の家系5代目であり[4]、祖父の浅井策庵も京で名の知られた医師だった[2]

享保10年(1725年)、父・東幹が徳川継友に禄400石で招かれ尾張藩藩医となって名古屋に居を移したが[2]、図南は京都に留まって医業を行った[1][5]

史記第105巻の『扁鵲倉公列伝割解』を著したが、これは扁鵲倉公列伝単独の注釈のはじめとなるもので、室町時代の『史記』研究と江戸時代後期の研究の中間点にあって、研究史において重要な位置づけとなった[6]。のちに奈須恒徳によって補修されている[7]

画に優れ、特に墨竹画については、宮崎筠圃山科李蹊御園中渠とともに「平安の四竹」と称された[1][3][5]

後に父・東軒の死を受けて、父の跡を継ぎ尾張藩医となる[1][3][5]

天明2年(1782年)、77歳で没した[1][5]。以降子孫が藩医を継いだ[2]

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脚注

参考文献

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