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浜田義史
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浜田 義史(はまだ よしふみ、1947年5月14日 - )は、日本のマーケティングエンジニア、クリエーター、ビジネスマン、特許保有ビジネス、服飾コンサルタント、食ガイド。
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来歴・人物
東京都目黒区生まれ。サレジオ高等学院卒業。獨協大学法学部中退。青年期には学生運動に参加し、逮捕・投獄を経験。さらに重い病を患い、精神的にも過酷な青春時代を送った。
マーケッターとして
1982年2月、アスキーの関連会社「ASCII Consumer Products(ACP)」に入社[1]。当時アスキーマイクロソフト部門事業部長だった古川享(のちのMicrosoft日本法人初代社長)は、浜田の会社でアルバイトをしていた縁があり、京都セラミック(現・京セラ)社長稲盛和夫からの支援を受ける。
入社後5か月間は売上・利益の立て直しに注力。1982年6月には「月商倍増計画」を打ち出し、同年10月に月商3億円を達成。親会社アスキー出版を上回る成果を挙げ、ACPとアスキー出版の合併による「新生アスキー」誕生に貢献した。その後、アスキー取締役営業本部長、アプリケーション事業部長、エンタテインメント事業部長を歴任し、売上は300億円に到達。
1986年、Microsoft社のNASDAQ上場を契機にアスキーは総代理権を失い、経営危機に陥る。浜田は西和彦の要請を受け、任天堂へのコントローラーOEMを立案。わずか10か月で売上100億・利益40億を達成し「アスキーの奇跡」と呼ばれる業績を挙げた。この功績により常務取締役、アスキーネット社長、ASCII of America会長、ASCII of China会長を歴任。アスキーネットでは世界初の無料プロバイダー「アスキーフリーウェイ」を実施し、加入者数を15,000人から400,000人へと拡大。のちにアスキーは株式公開を果たした。
経営者として
1996年6月、アスキーを退社し「株式会社アイキューブネット」を設立。稲盛社長からの15億円の出資要請を辞退し、独自に21億円を調達。世界初のVoIP技術を用いたインターネットFAX事業を開始した。
初年度はソフトウェア不具合に悩まされたが、2年後には契約事業所3,000件を超え、売上100億円を達成し黒字化に成功。しかし1997年、BIS8%規制および通信大手の圧力による銀行口座凍結(17億円)を受け、黒字倒産を余儀なくされる。1998年10月、東京地裁より破産手続き開始。
現在[いつ?]はHMDホールディングス代表取締役を務める。
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脚注
参考文献
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