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深堀好敏
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深堀 好敏(ふかほり よしとし、1929年(昭和4年)2月6日[1] - 2023年5月21日)は、長崎の被爆体験者の一人。
ペンネームを「深堀義俊」として自らの被爆体験などを原爆関連書籍に寄稿した。1979年に原爆投下直後の被爆写真を収集し、その撮影場所や日時、被害の状況、写っている人物などについて調査を始め、被爆の実態を明らかにしてきた[2]。
2002年から2018年まで長崎平和推進協会 写真資料調査部会の部会長を務めた。長崎市がアメリカで行った被爆写真の収集に参加し、2013年から2015年に計3回渡米し、米国立公文書館などで被爆の実相を伝える写真を収集した[3]。
2017年に、平和祈念式典で被爆者が読み上げる『平和への誓い』の代表に初めて公募で選ばれた。そして、平和祈念式典で被爆者の代表として『平和への誓い』を読み上げ、その中で次のように語った[4]。
原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。 — 深堀 好敏、2017年 平和祈念式典(長崎市) 『平和への誓い』
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生涯
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1945年8月9日、爆心地から3.6キロメートル地点にあった動員先の疎開事務所(現在の蛍茶屋停留場付近)で被爆[5]。原爆では姉とおじを亡くした。戦後は病院の事務職員として働き、1970年頃から語り部として活動した[6]。
40年にわたり、4千枚以上の被爆写真と向き合った。2023年5月21日、入所していた長崎市内の施設で死去した[7]。享年94歳。
著作
- 深堀義俊 詩:「罪」(「季刊・長崎の証言」9号)長崎の証言の会/編 長崎の証言の会 1980。 p12
- 嶋田正儀(語り手) 深堀義俊(記録者)「交通船の窓」
- 秋月辰一郎 著、鎌田定夫 編『「季刊・長崎の証言」2号)』長崎の証言の会、1979年2月10日。 pp.100-105
- 深堀義俊(聖フランシスコ病院勤務) わたしの発言 「長崎の平和教育を考える -平和カレンダー問題によせて-」
- 秋月辰一郎 著、鎌田定夫 編『「季刊・長崎の証言」9号)』長崎の証言の会、1980年11月10日。 pp120-122
- 深堀義俊(聖フランシスコ病院事務長)『教皇歓迎集会「救護班」顛末記』
- 秋月辰一郎 著、鎌田定夫 編『「季刊・長崎の証言」11号)』長崎の証言の会、1981年5月15日。pp22-27
- 深堀義俊 ■金比羅山をこえて大学病院下の坂本町へ 「被爆者のかげ」 - 二十四年めの夏の日記から -
- 秋月辰一郎 著、「長崎の証言」刊行委員会 編『「長崎の証言」1970』あゆみ出版、1970年8月1日。pp100-104
- 深堀義俊 「名もなき死者たちのこと -復元調査をとおして-」
- 秋月 辰一郎 著、長崎の証言刊行委員会 編『長崎の証言 1977 第9集 』長崎の証言刊行委員会、1977年7月25日。pp177-181
- 深堀好敏 「また会う日まで」
- 内田伯、濱﨑均、廣瀬方人 著、長崎の証言の会 編『証言 第20集 (2006) ヒロシマ・ナガサキの声』長崎の証言の会、2006年10月。ISBN 4-8113-0212-5。pp75-77
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脚注
参考文献
外部リンク
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