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渋沢栄一襲撃事件
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渋沢栄一襲撃事件(しぶさわえいいち しゅうげきじけん)は、1892年(明治25年)12月11日に実業家の渋沢栄一が、東京府東京市日本橋(現・東京都中央区)で暴漢2名に襲撃された事件である。
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経過
1892年12月11日の午後2時20分ごろ[要出典]、渋沢栄一は伊達宗城が重病であったため、浅草今戸の宗城邸を見舞うために自宅のある日本橋兜町を馬車で出発した[2]。兜橋を渡りかけたところ、2人の暴漢が左右から現れ、刀を抜いて襲撃した[2]。暴漢はまず馬の足を斬りつけ、続いて馬車に刀を突きつけ、渋沢を刺殺しようとした[2]。渋沢は車内で新聞を読んでいたが、突然の衝撃で顔を上げたところ、白刃が目の前に迫ったという[2]。幸い、窓ガラスの破片で左手に軽傷を負ったのみで命に別状はなかった[2]。
馬車を操っていた御者・八木安五郎は渋沢家に20年近く仕えた忠実な人物であり、西南戦争では騎兵として従軍した経験をもつ[2]。八木は襲撃時に鞭で暴漢を打ち払いった[2]。骨に達するほど負傷した馬であったが、八木はなんとか馬を激して日本橋西へと駆け抜け、駿河町の越後屋(現在の三越)に逃れた[2]。渋沢は越後屋の楼上で休息をとった後、自邸に帰宅した[2]。暴漢2名は、護衛の宮里巡査と馬丁の協力によりその場で逮捕された[2]。宮里はのちに三重紡績の役員となっている[2]。
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背景
事件の背景には、当時の東京市が進めていた「東京市水道鉄管問題」があったとされる[1]。東京市では水道敷設にあたり、内地製鉄管を使用すべきか、外国製鉄管を採用すべきかをめぐって激しい論争が起きていた[1]。渋沢は多年の実業経験から、品質・価格の両面で外国製が優れていると主張した[1]。
一方、内地製鉄管を推進していた鋳鉄会社側は、渋沢の意見を「外国人と結託して私利を得ようとするもの」と非難し、悪評を流布し新聞を通じて渋沢を攻撃した[1]。やがて一派の中から渋沢の暗殺を企てる者が現れ、今回の襲撃に及んだとされる[1]。
事件数日前にも渋沢は鋳鉄会社関係者の遠武秀行と会い、鉄管問題について激しく議論を交わしており、遠武が主謀者ではないかとの噂が流れた[3]。しかし渋沢は「このままでは遠武君が実業界に立つことが出来なくなる」と心を痛め、仲介者を通じて遠武と再会し、談笑して和解した[3]。このため、遠武関与説は次第に沈静化した[3]。
最終的に東京市の水道事業では内地製鉄管が採用されたが(鋳鉄会社は請け負っていない)、製品は粗悪で多くの不正が発覚し、やがて「鉄管疑獄」と呼ばれる大規模な汚職事件に発展した[1][3]。結果的に、渋沢の見解が正しかったことが明らかとなった[1][3]。
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事件後
渋沢は事件を「命に別状なき幸運」と受け止め、暴漢を深く憎むことはなかったという[要出典]。
襲撃者2名はいずれも懲役10年に処されたが、1人は服役中に死亡し、もう1人は減刑によって1899年(明治32年)に出獄した。渋沢はこの人物が貧困に苦しんでいることを聞き、人を介して金銭を送り生活を支援した[1][3]。後年渋沢は、「憎む心にはなれなかった。出来る事ならその罪を許してやりたいと思った」と語っている[3]。
脚注
参考文献
外部リンク
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