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無我流
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無我流(むがりゅう)は、田﨑儀左衛門が創始した捕手術を表芸とする総合武術の流派。肥前国で学ばれていたの捕手の一つ。
歴史
無我流捕手術は、江戸時代初期に肥前国小城(佐賀県小城市)在住の田﨑儀左衛門行廣(別名;吉永)によって創始された捕手術です。流名は、儀左衛門の武号「無我」に由来しているとのことです。今のところ田﨑儀左衛門の生没年や素姓は判明していませんが、おそらく寛永期から元禄期にかけて無我流を創始し、肥前を中心に普及活動を行っていたものと考えられます。 無我流は、肥前唐津藩領の郷士である「郷足軽」に伝承されていました。隣国では筑前福岡藩筆頭家老の三奈木黒田家(福岡県朝倉市)にも伝承されていた記録があります[1]。 山形藩水野家に無我流が伝承された経緯は、水野家が1762年から1817年の55年間にわたり唐津藩6万石の藩主であり、この時期に下級藩士のあいだで伝承普及されていました。唐津藩主を務めた歴代大名家には、それぞれ無我流が伝承されていたようです。1678年から1691年まで唐津藩主であった三河西尾藩の大給松平家にも無我流伝承の記録があります。(※『武芸流派大事典』は、西尾藩伝の無我流史料をもとに流派を詳解しているようです) 無我流は、「無我流捕手術」または「無我流捕手兵法」という名称で伝書巻が発行されています。伝習者には、『目録』と『奥儀』の二巻がそれぞれの段階を経て師範家から伝授されたようです。伝系によっては、『免状』、『壇之巻』といった書状や伝書があります。 残念ながら無我流の実伝術技は既に失伝しています。佐賀県の厳木では、唐津郷足軽の子孫の方々によって大正期から昭和初期の戦前まで実際に稽古伝承が行なわれていたそうです。 現存する各伝系の無我流伝書巻の内容を考察すると、楊心流柔術との関連性が見受けられます。唐津郷足軽の伝書巻では、体術技法のほかに小太刀や剣術(兵法と表記)の形名の記述があります。奥伝技法には「鎧組打ち」があり中世の介者武術の技法も伝承されていたようです。 水野家をはじめ唐津藩主を務めた譜代大名は、老中などの幕閣を歴任しています。藩主が幕閣(老中、京都所司代、大阪城代、寺社奉行など)に在任中は、直臣の藩士たちが幕府の役人として働きます。末端の幕吏となる下級藩士の徒士や足軽には、治安維持や警察業務の術科訓練として捕手術の修得が課せられていたようです[2]。
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内容
- 表
- 無刀捕之事
- 待捨、断間、無雙、花車、無頭
- 立合捕之事
- 𧏪、三方搦、岩石落、披搴、髻抜、向詰、追懸
- 居合捕之事
- 一起、一留、車留、飛点、沈身、懸捨、腕留、排身、右轉、左轉、壁添
- 中段
- 白刃捕之事
- 待捨、断間、無雙、花車、無頭
- 蜻蛉、留入、直身
- 点棒捕之事
- 三寸留、請流、重留、付入、乱点
- 小刀之事
- 向位、誠眼、右溶、左溶、切延、陰鑓留、陽鑓留、見眞
- 兵法之事
- 請流、右溶、左溶、切延、燕皈
- 極意
- 殺人態、活人態、生死氣見
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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