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物部伊勢父根
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物部伊勢父根(もののべ の いせ の ちちね)は、『日本書紀』等に伝わる古墳時代の豪族。姓は連。別名は物部至至(もののべ の ちち)。
概要
『日本書紀』継体天皇9年春2月条によれば、父根は百済の使者の文貴将軍の帰国に同行した。 同月には沙都嶋(巨済島)に移り、同年4月には、帯沙江に移動して、その6日後には伴跛が軍隊を起こし、父根を襲撃した。父根は恐怖し、逃亡して汶慕羅(朝鮮半島内の島で場所は不明)に至ったという[1]。
『日本書紀』継体天皇23年春3月条によれば、父根は吉士老と共に百済に派遣され、津(港)を百済の王に与えた。しかし、加羅王は父根達に 「この津は官家(=屯倉、倭国の直轄地)が設置されてから、我々が朝貢する際に利用する津です。どうして簡単に隣の国に与えられましょうか」と反発したため、父根達は百済に津を与えるのは難しいと考え、大嶋(朝鮮半島内の島で場所は不明)に帰ったという[2]。
倭系百済官僚である物部麻奇牟(莫哥武とも)、物部用歌多、物部哥非、物部烏の父祖であるとする説が存在する[3]。
『勿部将軍功徳記』に登場する百済の勿部珣を「物部珣」とし、物部氏の末裔とする説が有力である(倭の物部氏の末裔とも、倭系百済官僚の末裔とも)[4][5][6]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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