トップQs
タイムライン
チャット
視点

独孤修徳

ウィキペディアから

Remove ads

独孤 修徳(どっこ しゅうとく、生没年不詳)は、中国初の人物。曾祖父は独孤信。祖父は独孤蔵中国語版。父は独孤機。『旧唐書』では独孤修と記される。

生涯

王世充が隋の恭帝侗を廃して鄭の皇帝を称すると、独孤機は、密かに唐に降伏しようとしたが、これが王世充に露見すると、王世充に殺害された[1]

独孤修徳は、唐に帰服し、官位は定州刺史に至った。

武徳4年(621年)、秦王李世民が鄭を滅ぼすと、王世充は、投降して長安に押送され、への流罪とされた。王世充は、雍州光徳坊の廨舎[2](役所の建物)に所在していたところ、独孤修徳は、兄弟と密かに謀り、廨舎に赴き、詔書が発せられたと偽って王世充を呼び出した。王世充が兄の王世惲とともに出て来たところを、父の敵討ちであるとして独孤修徳らが殺害した。唐の高祖李淵は、詔書を発し、独孤修徳の官位を罷免した。王世充のその他の兄弟やその子らは、謀反のかどで誅殺された[3][4][5]

独孤修徳の官位は同州刺史に至り、滕国公に封ぜられた。

脚注

参考資料

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads