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玉藻丸
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玉藻丸(たまもまる)は、逓信省鉄道局(後の鉄道院を経て鉄道省)宇高航路に在籍した客船。
船名は古事記にある地名からとられており、玉藻は高松港付近のことである[7]。
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概要
「玉藻丸」およびほぼ同型の「児島丸」は、元は山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が発注した船である[4]。
旅客定員は就航時は一等船室が12名、二等船室が36名、三等船室が98名であったが、1919年(大正8年)には二等船室が38名、三等船室が290名となっている[6]。
照明には旧来の石油ランプに代わって電灯を用い、話題となった[6]。また船体もそれまでの黒と違って白色に塗られていた[6]。船内の売店ではビフテキ、ビール、フライが売られ、珍しがられた[6]。
船歴
「玉藻丸」は三菱合資会社三菱造船所の151番船として建造され[5][3]、1902年(明治35年)8月11日に起工[3]。1903年(明治36年)1月24日に進水し[3]、同年3月12日に竣工[3]。3月18日、三蟠・高松間に就航した[4]。
1906年(明治39年)12月1日、山陽鉄道は国有化される[2][4]。
1910年(明治43年)6月に宇野線が開通すると岡山・高松航路は宇野・高松航路に変更され、「玉藻丸」は同航路の第一船となった[8]。
1919年(大正8年)7月5日と翌6日、および1920年(大正9年)5月16日から18日まで、山陽線不通に伴い宇野・尾道間で臨時運行される[9]。
1924年(大正13年)3月1日、「児島丸」とともに瀬戸内連絡急行汽船に売却された[10]。1945年(昭和20年)6月、瀬戸内海汽船に移籍[2]。
戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-T109の管理番号が付与された[2]。
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脚注
参考文献
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