トップQs
タイムライン
チャット
視点

番匠棟上槌打

ウィキペディアから

Remove ads

番匠棟上槌打(ばんしょうむねあげつちうち)は、番匠が行う儀法。古来、高貴な建物を建てる棟梁を番匠(ばんしょう)と呼ぶが、その番匠が建築すべてに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る儀法を番匠棟上槌打という[1]

概要

2014年(平成26年)、300年ぶりに再建される奈良興福寺において番匠棟上槌打という儀式が披露された[2]。この儀式を保存するため、1968年(昭和43年)、番匠保存会が設立された[2]番匠は、建築の全てに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道などの祭祀祭礼の儀法を持ち合わせ、戦国時代陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた番匠が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名古屋工業大学名誉教授内藤昌は述べている[3]

無魔成就の儀式

  1. 一番槌 一番槌を打つ際、東に向かって「天長地久」南面し「御願円満」を唱え、金輪仏頂印を結ぶ[1]  
  2. 二番槌 「安穏、天人常充満」を唱え、塔印を結ぶ[1]
  3. 三番槌 「諸願成就、皆令満足」を唱え、仏眼尊の印明を結ぶ[1]
  • 印とは: 仏像が手で表現する形、印契(いんげい)、印相ともい、代表的なものに、手のひらを合わす合掌印がある。[1]
  • 印明とは: 手で結ぶ印(印相)と、口に唱える呪文を併せて印明と言い、無魔成就(無魔成満)の儀式。[3]

伝承

戦国時代、京都、京都御所の在する陰陽師が迫害を受けるなか、戦国武将の築城などに番匠は重用され、番匠棟上槌打の儀式が、陰陽道、家相の伝承に繋がる[2] 戦国時代の迫害は、本流の土御門家であっても陰陽道の相伝や法具を喪失し、[4]陰陽道の最も重要な「大法」である泰山府君祭の祭壇を、京都吉田神社などから借用して京都御所の地鎮祭を行うようになり、神道色を著しく濃くすることになり[4] 現代の上棟式や地鎮祭なども、本来の仏教儀式から神道儀式に変化し現代の建築儀式に取り入れられていると家相を研究する小池康寿が著書で論じる。[5]

民間への伝承は、国家に仕えた者以上の陰陽師が地方に分散し、声聞師(だましもの)として活動し、[6]全国各地で小正月に行われる左義長という火祭りも声聞師の影響が大きく、明治政府の神仏分離令により、家相は禁止されることになるが、[6]番匠棟上槌打も同様、特に江戸時代、数多くの流派、儀式で混乱する。[6]しかし本流の儀式を保存するため、1968年(昭和43年)、番匠保存会が設立され、奈良興福寺の番匠棟上槌打が復活した。[2]

参考文献

  • 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本 : 本当は間取りを変えずに鬼門は避けられる』プレジデント社、2015年11月。ISBN 9784833421492全国書誌番号:22668323https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026802346

脚注

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads