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白樺日誌

瀬野修がシベリア抑留中に書いた日誌 ウィキペディアから

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白樺日誌(しらかばにっし)とは、京都府舞鶴市出身の瀬野修が終戦後シベリアで抑留中の2年間に書いた日誌[1]。紙がないため白樺の皮をはぎ、筆記用具もないため空き缶の先を尖らせペンとし、煙突の煤を水に溶いてインク代わりにしている[2]

背景

作成者の瀬野はもともと旧制舞鶴中学校の教師であったが、時代は太平洋戦争に突入し1944年に瀬野も択捉島へ出征する。その後1945年9月2日の降伏文書調印直前である8月28日日ソ中立条約をソ連軍が破り択捉島に上陸、占領。以降抑留者としてコムソモリスク近郊の収容所を転々としていた[1][3]

その中で1945年9月下旬ごろから瀬野は抑留中にシラカバの木の皮をはぎ、空き缶の先をペンとし、煙突のすすをインク代わりにして縦10センチ・横11センチほどの樹皮52枚のうち、36枚の表裏にから成る母国や家族への思い、日々の生活を織り込んだ約200 - 300首の和歌集を作成した。これが白樺日誌である[1][4][3][5]

帰還後

1947年引き揚げされ[1]、その際に収容所やナホトカでの所持品検査をくぐり抜け、奇跡的に持ち帰ってくることができた。その後1988年、この日誌などを舞鶴引揚記念館に寄贈した[4]

2015年10月10日ユネスコの「世界記憶遺産」に、「舞鶴への生還1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が登録され[6]、この中に白樺日誌も含まれている[7]

2017年2月16日には状態調査が行われたものの、目立った劣化は見つからなかった[7]。2020年にも最新技術による調査が行われている[4]

内容

和歌は自作の物である。瀬野が帰還後の1947年に出版した『シベリア抑留記』には白樺日誌の和歌がいくつか記されている。ここでは『シベリア抑留記』の文面ままに5つ和歌を連ねる[1]

  • 土筆ありよもぎ草ありおのがじし採りし野草に夕餉楽しも[意味 1]
  • 砂利列車轟き渡りヌもとの静寂 に帰りぬ夜明け近しも[意味 2]
  • 寒き夕家族こぞりて母の手に なれる甘酒飲みつ語らふ[意味 3]
  • 凍傷の鼻揉む兵の頳顔かな[意味 4]
  • 南の空ふし拝む朝夕の點呼一入 思ひ深か[意味 5]

脚注

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