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益田就白
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益田 就白(ますだ なりあき、元文5年(1740年) - 明和8年1月19日(1771年3月5日))は、江戸時代中期の長州藩重臣。寄組問田益田家(4096石)5代。父は益田兼慶[1]。正室は益田広高の娘[1]。子に益田親愛がいる[1]。
長州藩第7代藩主の毛利重就より偏諱を受けて就白と名乗る。また初名に兼之が伝わる[1]。幼名は三四郎[1]。通称は図書[1]。
生涯
元文5年(1740年)に益田兼慶の子として生まれる。父の兼慶は寄組問田益田家の4代当主である益田元方の嫡男であったが、病身のため家を継がず、兼慶の弟で就白の叔父の広高が嗣子となった[1]。しかし広高も病身のため家を継がず、兼慶の嫡男である就白が祖父の元方の養嗣子となり、5代当主となった[1]。
明和8年1月19日(1771年3月5日)死去[1]、享年32[1]。戒名は本性院殿固室道堅大居士[1]。家督は嫡男の親愛が相続した[1]。
脚注
参考文献
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