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相模カンツリー倶楽部

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相模カンツリー倶楽部
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相模カンツリー倶楽部(さがみカンツリーくらぶ)は、神奈川県大和市中央林間西に広がるゴルフ場である。

概要 相模カンツリー倶楽部 Sagami Country Club, 所在地 ...
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概要

1929年昭和4年)、小田急電鉄株式会社小田急江ノ島線を開通させ、沿線に林間都市開発構想を計画、中心施設にゴルフ場を考えた[1]。いち早く乗り出したのが、東京ゴルフ倶楽部駒沢コース(1914年大正3年》開場、1941年《昭和16年》閉鎖)で、クラブの移転先問題で候補に挙がったが不調に終わった[1]。新たなゴルフ場の創設に動いたのは、伊藤文吉ら7人で、「相模カンツリー倶楽部」の建設に向け呼びかけた先は、満鉄正金三菱などだった[1]

1930年(昭和5年)、コース設計を赤星六郎に依頼、ゴルフ用地は川や沼もあるリンクスであった。赤星自身初めて設計したコースである[1]1931年(昭和6年)9月27日に9ホールが仮開場され、赤星六郎はこの時の設計について「コースは、私が抱いている夢と理想を表現した」と語った[1]1933年(昭和8年)7月16日、18ホールが完成し開場した。1936年(昭和11年)4月、倶楽部は社団法人の認可が下りた[1]

1944年(昭和19年)7月、陸軍の研究用地のために9ホールに徴発命令が下された[1]1945年(昭和20年)4月、陸軍農耕隊の駐屯が決定し、栽培を始めたのでゴルフ場は休場となった。終戦時、無傷なホールは5番、9番、10番、18番ホールだけだった[1]。同年10月、倶楽部の理事会で再開を決定、東京急行電鉄の協力を得てコースの復旧作業に着手した[1]1946年(昭和21年)1月、米軍から使用の申入れがあったが、その10日後にクラブハウスが全焼した[1]

1947年(昭和22年)1月2日、5ホールのコースで仮開場と共に仮クラブハウスが完成し[1]、6月に18ホールが完成した。1950年(昭和25年)5月、サブグリーンの設置の設計を井上誠一に依頼し、同年10月、ツーグリーンが完成した。1965年(昭和40年)9月17日、新クラブハウスが落成した。1966年(昭和41年)11月4日、タイムライフ・インターナショナル社の好意により、ジャック・ニクラスゲーリー・プレーヤーアーノルド・パーマーがラウンドした[2][3]

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所在地

〒242-0008 神奈川県大和市中央林間西七丁目1番1号

コース情報

  • 開場日 - 1931年9月27日
  • 設計者 - 赤星 六郎
  • コースタイプ - 林間コース
  • コース - 18ホールズ、パー72、6,144ヤード、コースレート71.1
  • グリーン - 2グリーン、ベント(ペンクロス)、ニューベント
  • フェアウエイ - コーライ
  • ラフ - ノシバ
  • ハザード - バンカー95、池が絡むホール1
  • プレースタイル - 歩き(電動カート)、全組キャディ付き
  • 練習場 - 28打席 230ヤード
  • 休場日 - 毎週月曜日、12月31日、1月1日[4][3]

ギャラリー

交通アクセス

メジャー選手権

エピソード

  • ゴルフ場のコース設計家の赤星六郎は、相模カンツリー倶楽部の設計が処女作だった。コースが平坦なため、変化を付けるために、バンカーの数を66か所(現在は106か所)と多く配置したことから、「相模は難しい」と評判になった[1]

脚注

関連文献

関連項目

外部リンク

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