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神代三陵
瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の陵墓の総称 ウィキペディアから
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神代三陵(かみよさんりょう[1])または神代三山陵は、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の陵墓の総称。


概要
それぞれの陵名は、『日本書紀』で「筑紫日向可愛之山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載されているが、場所の詳述はない。
また平安時代の『延喜式』諸陵寮では「日向埃山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載される。しかしいずれも「在日向国、無陵戸」とのみ記され、陵戸は置かれていなかった。他の陵墓のように郡名・兆域までは記載されていないので、『延喜式』当時には所在が失われていたものと推定する説もある[1]。
なお『延喜式』諸陵寮では、上記の3陵の記載に続けて「已上神代三陵、於山城国葛野郡田邑陵南原祭之、其兆域東西一町、南北一町」と記されており、平安時代には田邑陵(文徳天皇陵)の南側の祭場で3陵の祭祀が行なわれたことが知られる[1][2]。この祭場は京都府京都市右京区付近と推定されるが、確かな所在地は明らかでない[2]。
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治定の経緯
→「吾平山上陵 § 比定の経緯」も参照
明治7年(1874年)に現在の3陵(可愛山陵・高屋山上陵・吾平山上陵)に治定された[1]。治定地はすべて現在の鹿児島県(薩摩国、大隅国)の範囲であった。
比定地を巡り諸説が生じたため、宮崎県の陵墓は陵墓参考地に治定されており、現在はいずれも宮内庁により管理されている(治定の経緯は各項目参照)。
明治7年の治定
脚注
参考文献
関連項目
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