トップQs
タイムライン
チャット
視点

神代三陵

瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の陵墓の総称 ウィキペディアから

神代三陵
Remove ads

神代三陵(かみよさんりょう[1])または神代三山陵は、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊彦火火出見尊鸕鷀草葺不合尊の陵墓の総称。

Thumb
可愛山陵瓊瓊杵尊陵)
Thumb
高屋山上陵彦火火出見尊陵)
Thumb
吾平山上陵鸕鷀草葺不合尊陵)

1874年、宮内省(1869年 - 1947年)により、すべて鹿児島県内の陵墓に治定されている。

概要

それぞれの陵名は、『日本書紀』で「筑紫日向可愛之山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載されているが、場所の詳述はない。

久之、天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。

久之、彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。

久之、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵。 日本書紀 巻第二 神代下

また平安時代の『延喜式諸陵寮では「日向埃山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載される。しかしいずれも「在日向国、無陵戸」とのみ記され、陵戸は置かれていなかった。他の陵墓のように郡名・兆域までは記載されていないので、『延喜式』当時には所在が失われていたものと推定する説もある[1]

なお『延喜式』諸陵寮では、上記の3陵の記載に続けて「已上神代三陵、於山城国葛野郡田邑陵南原祭之、其兆域東西一町、南北一町」と記されており、平安時代には田邑陵(文徳天皇陵)の南側の祭場で3陵の祭祀が行なわれたことが知られる[1][2]。この祭場は京都府京都市右京区付近と推定されるが、確かな所在地は明らかでない[2]

Remove ads

治定の経緯

明治7年(1874年)に現在の3陵(可愛山陵高屋山上陵吾平山上陵)に治定された[1]。治定地はすべて現在の鹿児島県(薩摩国、大隅国)の範囲であった。

比定地を巡り諸説が生じたため、宮崎県の陵墓は陵墓参考地に治定されており、現在はいずれも宮内庁により管理されている(治定の経緯は各項目参照)。

明治7年の治定

概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...
さらに見る 被葬者, 陵名 ...

脚注

参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads