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斯那奴次酒

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斯那奴次酒(しなぬ の しす、生没年不詳)は、欽明朝前半期百済官僚[1]日本人であるが、百済王権に仕えた倭系百済官僚[2]官位施徳、その後、徳率に昇進[3]科野次酒とも。

概要 斯那奴次酒, 各種表記 ...

官位

1.
百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。日本書紀、欽明天皇五年二月
2.
百濟遣奈率其悛。奈率用哥多。施徳次酒等上表。日本書紀、欽明天皇六年五月
3.
百濟遣上部徳率科野次酒。杆率禮塞敦等,乞軍兵。日本書紀、欽明天皇十四年正月乙亥
4.
百濟遺上部奈率科野新羅。下部固徳汶休帶山等上表曰。去年臣等同議,遣内臣徳率次酒。任那大夫等。奏海表諸彌移居之事。日本書紀、欽明天皇十四年八月丁酉
5.
百濟遣中部木州施徳文次。前部施徳曰佐分屋等於筑紫。諮内臣佐伯連等曰。徳率次酒。杆率塞敦等以去年閏月四日到來云。臣等〈臣等者。謂内臣也。〉以今年正月到。如此噵而未審。來不也。又軍數幾何。願聞若干預治營壁。日本書紀、欽明天皇十五年正月丙申

斯那奴次酒は、1.2.では官位八等「施徳」、3.4.5.では官位四等「徳率」に昇進している帯官状況から鑑みると、百済官僚として継続的に仕えていたことがわかり、4.では「内臣」の地位にあり、百済王側近だった可能性がある[3]

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家族

日本書紀』百済系史料に記される斯那奴氏(科野氏)の活動は以下である。

1.
百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多,副高麗使安定等,來朝結好。日本書紀、巻第十七
2.
遣使詔于百濟〈百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。〉曰。日本書紀、巻第十九
3.
在百濟日本王人方欲還之。〈百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。〉日本書紀、巻第十九

1.では百済と継体天皇の外交において、百済使者「日本斯那奴阿比多」が現れるが、斯那奴阿比多の動向について、欽明天皇十一年に倭国が派遣した外交使節とみる見解があるが、そう単純ではなく、何故ならば、1.2.の間にあたる期間に斯那奴氏(科野氏)が倭系百済官僚として現れるためである[4]

百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。日本書紀、巻第十九

官位「施徳」を有する斯那奴次酒がみえるが、斯那奴氏(科野氏)は、『日本書紀』に他に現れない信濃豪族であり、ヤマト王権において活発に活動していたわけではなく、それを考慮すると斯那奴次酒は斯那奴阿比多と近い関係である可能がある[4]。すなわち、斯那奴阿比多、斯那奴次酒、科野新羅の関係であるが、倭国における有力豪族とは言い難い斯那奴氏(科野氏)という共通性からすれば無関係とは考え難く、斯那奴阿比多の活動は継体天皇十年から欽明天皇十一年、斯那奴次酒の活動は欽明天皇五年から欽明天皇十五年、科野新羅の活動は欽明天皇十四年であり、斯那奴阿比多は一世代前から活動を始めていることになるため、斯那奴阿比多が、斯那奴次酒・科野新羅が兄弟の可能性がある[3]

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脚注

参考文献

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