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稲本白鵞
教育者、書道家 ウィキペディアから
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稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年)[1])は、教育者、書道家。現在の岡山県井原市出身[1]。
経歴
生い立ち
1887年(明治20年)、稲本陽洲の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する[1]。
女学校卒業後
1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県の朝倉実科高等女学校に教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父・陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳で死去した[1]。
脚注
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