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稿本日本帝国美術略史

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稿本日本帝国美術略史』(こうほんにほんていこくびじゅつりゃくし)は、1901年に成立した日本美術の通史。公式に編纂された日本で最初の美術史とされる[1]

概要 稿本日本帝國美術略史, 編集者 ...

概要

本書は1900年パリ万国博覧会に合わせて作成された『Histoire de l'art du Japon』の稿本である。万博の翌年にあたる1901年に、政府の農商務省から刊行された[1]

制作に至る経緯

本書の制作事業は、1891年より帝国博物館で進められた日本美術史の編纂事業を前身とする。本事業で編集にあたったのは岡倉天心であった。パリ万博の開催が迫る1897年、帝国博物館は、農商務省の臨時博覧会事務局から仏文の日本美術史を制作するよう依頼される。従来の編纂事業はこちらに引き継がれ、それに伴って新たな編纂体制が発足する。編集主任は岡倉、副主任は福地復一執行弘道であった。翌年の1898年には岡倉が編集主任を辞任し、新たに福地が編集主任に就任した。このような紆余曲折はあったものの、万博での出品および日本語版の刊行は無事果たされることとなった[2]

目次

制作に関わった人物

以下は『稿本日本帝国美術略史』「序論」の記述[3]に基づく。

岡倉の辞任とその影響

本書の制作に際しては、当初の編集主任であった岡倉が途中で辞任しており、その結果、編纂方針が大きく変化したと推測されている。木下長宏によれば、日本を外国との関係に基づいて捉える岡倉の考えが一掃された代わりに、日本を固有の国家として捉える考えが反映され、天皇や支配者を基準とする歴史区分になったという。本書で示された日本美術史における時代区分は、呼称や細部の分け方は変わりつつも、現代まで受け継がれているという[4]小路田泰直は、神代や古代の美術を不当に高く評価するようになったことなど、岡倉の辞任によって生じたと考えられる記述の変化を指摘し、「水戸学的、名分論的世界観を美術史の世界で表す、やや羅列的な書に様変わりを遂げてしまった」と評している[5]

脚注

参考文献

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