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竹内悌三
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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竹内 悌三(たけうち ていぞう、1908年11月6日 - 1946年4月12日)は、東京府(現在の東京都)出身のサッカー選手。朝鮮銀行副総裁・野球研究者の君島一郎は岳父[2]。照明デザイナーの石井幹子は娘[3]。
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経歴
東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)在学中よりサッカーを始め、浦和高等学校を経て、1928年に東京帝国大学に入学してア式蹴球部に入部した。在学中の1930年に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦で日本代表として初出場した。
1932年に東京帝国大学経済学部卒業後は東京火災保険会社に入社。1936年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され[1]、主将としてスウェーデン代表戦など2試合に出場した。
1944年、第二次世界大戦に伴って兵役に就き、終戦後はシベリア抑留となり、1946年4月、同地のアムール州第20収容所で死去した。
所属クラブ
- 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)
- 浦和高校
- 東京帝国大学
- 東京火災保険会社
代表歴
出場大会
- 1930年:第9回極東選手権競技大会
- 1936年:ベルリンオリンピック
試合数
- 国際Aマッチ 4試合 0得点(1930-1936)
出場
出典
関連文献
関連項目
外部リンク
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