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笠原康明

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笠原 康明(かさはら やすあき、生没年不詳)は、戦国時代 から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。北条氏政の側近。北条家朱印状の奉者として活躍した。

概要 凡例笠原 康明, 時代 ...

生涯

康明は、弘治2年(1556年)4月から史料に見られ、官途名藤左衛門尉を称している[1]

永禄2年(1559年)の役帳では、康明は伊豆国奈古谷、相模国東郡泉郷、武蔵国八朔の合計191貫180文を領している[1]

康明は武蔵岩付領の国衆太田氏への取次(小指南)を務めた。永禄10年(1567年)9月、同領を支配していた太田氏資三船山合戦で戦死したことにより、同領が接収されると、岩付城城代として北条氏繁が入り、康明はその領域支配を担当し、取り次ぐ、奉行人となった。天正3年(1575年)に康明は岩付領関係の北条家裁許朱印状に署判しており、岩付領に関する事柄に限り、北条家内で、評定衆も務めている[1]

天正3年 - 5年ごろ(1575年 - 1578年ごろ)、康明は北条氏政の次男太田源五郎が岩付太田氏の名跡を継ぐと、その後見を務めている[1]。この時、康明は源五郎の入城をめぐって、氏繁と対立し、義絶状態になっている[2]。康明はこのころから受領名越前守を称している。天正8年(1580年)、康明は氏政の使者として上洛し、織田信長と、北条氏直と信長の娘との婚姻及び同盟の交渉にあたった[3]。天正15年(1587年)2月ごろから、上野国厩橋城に在城した[1]

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注釈

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