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第一次ポエニ戦争の講和条約
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第一次ポエニ戦争の講和条約(だいいちじポエニせんそうのこうわじょうやく)は、カルタゴとローマの間で23年にわたって続いた第一次ポエニ戦争の終戦と戦後処理について定めた条約である。
第一次ポエニ戦争は主にシチリアの支配をめぐって争われたが、ローマは紀元前241年にシチリアにおけるカルタゴの最後の拠点となっていたドレパナとリリュバエウムの海上封鎖を試み、一方のカルタゴも艦隊を派遣してこれらの拠点に対する補給線を確保しようとした。しかし、アエガテス諸島沖の海戦でカルタゴ艦隊がローマ艦隊に敗れ、シチリアの拠点を維持することが困難となったことから、カルタゴの元老院はシチリアにおける軍の最高司令官であったハミルカル・バルカにローマと和平交渉を行うように命じた。しかしながら、ハミルカルは降伏は不要だと主張して命令に従うことを拒否し、その結果として交渉はリリュバエウムの軍司令官であったギスコの手に委ねられた。講和の条件はギスコとローマの執政官であり軍司令官であったガイウス・ルタティウス・カトゥルスの間で交渉がまとまり、カトゥルスはローマに批准を求めたが、当初の案はローマの民会で否決された。
ローマはこの問題を解決するために10人からなる委員会を派遣した。そして追加の交渉の結果、カルタゴがシチリアとその周辺海域の島々をローマに割譲すること、ローマ人の捕虜を身代金なしで解放すること、賠償金の銀3,200タレントのうち1,000タレントを直ちに支払い、残額を10年割賦で支払うこと、そして相互の同盟国に対する戦争行為と干渉の禁止という条件で講和が成立した。その後、紀元前237年にサルディニアでカルタゴに対する反乱を起こしていた島の守備隊が先住民に追放され、追放された反乱軍はローマに支援を求めた。ローマはこれに応じ、サルディニアを占領するための遠征軍の準備を始めた。これに対しカルタゴもサルディニアを奪還するための遠征軍を派遣しようとしたが、ローマはこれをサルディニア人ではなくローマに対する戦争行為とみなし、和平の条件としてサルディニアの割譲と1,200タレントの追加の賠償金の支払いをカルタゴに要求した。自国の内乱を含む長年の戦争で疲弊していたカルタゴはローマの要求を飲まざるを得ず、この講和の条件は補足条項として先の講和条約の内容に加えられた。しかし、このローマの行為は第二次ポエニ戦争の遠因となるカルタゴ人の憎しみを買うことになり、古代と現代の双方の歴史家からも正当性に欠けた行為として批判されている。
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一次史料

第一次ポエニ戦争[注 1]のほぼすべての点における主要な情報源は紀元前167年に人質としてローマに送られたギリシア人の歴史家のポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作である[2][3][4]。ポリュビオスの著作の中にはすでに失われている戦術書などもあるが[5]、今日において知られている著作は、戦争終結からおよそ1世紀後にあたる紀元前146年以降に書かれた『歴史』である[2][6]。ポリュビオスの著作は概ね客観的であり、カルタゴとローマのそれぞれの視点からほぼ中立であると考えられている[7][8]。
カルタゴの文書記録はその首都であるカルタゴとともに紀元前146年に失われたため、ポリュビオスの第一次ポエニ戦争に関する記述は今日では失われているいくつかのギリシア語とラテン語の情報源に基づいている[9]。40巻からなる『歴史』のうち、第一次ポエニ戦争について扱っているのは最初の1巻だけである[10]。ポリュビオスの記述の正確性については19世紀末以降多くの議論がなされてきたが、現代におけるほぼ一致した見解は、大抵において記述を額面通りに受け入れることが可能というものであり、現代の情報源におけるこの戦争に関する詳細は、ほぼすべてポリュビオスの記述に対する解釈に基づいている[10][11][12]。現代の歴史家であるアンドリュー・カリーは、「ポリュビオスは極めて信頼性が高いことが分かる」と評価しており[13]、一方でクレイグ・B・チャンピオンは、ポリュビオスについて「驚くほど広い見識を持ち、精力的で洞察力のある歴史家」と評している[14]。
第一次ポエニ戦争を扱った後世の歴史書は他にも存在するが、これらの記録は断片的、あるいは要約的なものである[3][15]。現代の歴史家は大抵においてポリュビオス以外にもディオドロスやカッシウス・ディオなどの古代の著作のほか、かなり初期の史料に依拠した説明を残している12世紀のビザンツ帝国の年代記作家であるヨハネス・ゾナラスの著作などを参照している。ポリュビオスの著作と同様に、これらの著作の説明はその情報のほとんどを現在では失われているより初期の史料から得ている[16][17][18]。また、古典学者のエイドリアン・ゴールズワーシーは、「ポリュビオスの記述は他のどの記述とも見解が異なっている場合、通常は優先されるべきものである」と述べている[19][注 2]。
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第一次ポエニ戦争
要約
視点
共和制ローマは第一次ポエニ戦争が始まる1世紀前からイタリア本土南部への拡大を積極的に進めており[20]、紀元前272年までにアルノ川以南のイタリア半島の征服を完了した[21]。一方で現在のチュニジアに首都を置くカルタゴは、同じ頃にイベリア半島南部、北アフリカの沿岸地域の大部分、バレアレス諸島、コルシカ、サルディニア、そしてシチリアの西半分を支配する軍事・商業帝国となっていた[22]。そして紀元前264年までにカルタゴとローマは地中海西部における傑出した大国となった[23]。双方の国家は紀元前509年、紀元前348年、および紀元前279年頃に結ばれた正式な同盟を通じて何度かにわたり友好関係を確立していた。相互の関係は良好であり、商業面でも強い結びつきがあった[24][25]。しかしながら、紀元前264年に両者はシチリアの北東端に位置するメッセネ(現在のメッシーナ)の支配をめぐって対立し、この対立は戦争へと発展していった[26]。古典学者のリチャード・マイルズは、カルタゴのシチリアに対する所有者であるかのような振る舞いとイタリア南部が支配下に入った後のローマの拡張主義的な態度が交錯し、双方の勢力は意図的というよりも偶発的に戦争に陥ったと指摘している[27]。

結果的にこの戦争は23年にわたって続き、古代世界における海域を含んだ戦争としては最大かつ最も長期にわたる戦争となった[28]。ポリュビオスによれば、ローマは戦争の目標に関してアグリゲントゥムを陥落させた紀元前261年までにカルタゴ人をシチリアから完全に追放する方針を固めていた[29]。そしてカルタゴより強力な陸上戦力を活用してシチリアの大部分を支配下に収めていった。一方のカルタゴはローマと戦うにあたって敵の疲弊を待つという伝統的な政策を採用し、戦いで奪われた一部あるいは全部の支配地を将来的にローマから取り戻し、互いに満足のいく講和条約を結ぶことで折り合いをつけたいと考えていた[30]。その一方でカルタゴの指導者たちはシチリアよりもヌミディア人に犠牲を強いて北アフリカの支配地域を拡大させることにより強い関心を抱いており、恐らくシチリアをあまり重要ではない戦場だとみなしていた[31]。
紀元前250年以降、シチリアにおけるカルタゴの支配地はドレパナ(現在のトラーパニ)とリリュバエウム(現在のマルサーラ)の2つの都市を残すのみとなったが、シチリアの西海岸に位置していたこれらの都市には十分に強力な要塞が築かれており、カルタゴはローマの優れた陸軍による妨害を受けることなく海側から軍の増強や補給を行うことができた[32][33]。しかしながら、紀元前247年にハミルカル・バルカ[注 3]がシチリアでカルタゴ軍の指揮を執ることになったとき、ハミルカルにはわずかな規模の軍隊しか与えられず、駐留していたカルタゴの艦隊も徐々に撤退していった[35][36][37]。戦争は20年以上に及び、両国の財政は疲弊し、陸軍と海軍に十分な兵力を確保することが困難となっていた[38][39]。カルタゴの財政状況が悪化していたことを示す証拠として、エジプトのプトレマイオス朝に2,000タレント[注 4]の借款を求めたものの拒否されたという出来事がある[41][42]。一方のローマも破産寸前の状態にあり、海軍やローマ軍団の兵力となる成人男子の市民数も開戦から紀元前246年までの間に17パーセント減少していた[43][44]。

都市の封鎖を海域まで広げない限りドレパナとリリュバエウムを攻略することはできないと考えたローマの元老院は、紀元前243年の後半に新たな艦隊の建造を決定した[45]。しかし、国家の財源が枯渇していたため、元老院はローマで最も裕福な市民に融資を打診して1人1隻、あるいは2人から3人で1隻の船の建造資金を調達し、戦争で勝利した場合にカルタゴへ課すことになる賠償金から返済することにした。その結果、国費から賄われることなくおよそ200隻の大型の軍艦が建造され、装備と乗組員も同様に調達された[46][47][48]。これに対しカルタゴはシチリアへの物資輸送に活用することを意図していたローマを上回る大規模な艦隊を編成したが、この艦隊は紀元前241年3月10日にガイウス・ルタティウス・カトゥルスとクィントゥス・ウァレリウス・ファルトに率いられたローマ艦隊によってアエガテス諸島沖で迎撃された。この海戦は激しい戦いとなったが、最終的に敵軍より優れた訓練を受けていたローマ艦隊が人員不足で訓練も不足していたカルタゴ艦隊を打ち破った[49][50]。カルタゴ艦隊が擁していた250隻の軍艦のうち50隻が沈没し(うち20隻は乗組員全員とともに沈んだ)、70隻が捕獲された[45][51]。この決定的な勝利を得たローマ艦隊の司令官のカトゥルスは、戦闘後にリリュバエウムに赴いて都市の封鎖を継続しつつ捕獲した船舶と捕虜の戦後処理にあたった[51]。
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条約の交渉と締結
要約
視点
シチリアの拠点への救援が失敗に終わったことで、カルタゴの元老院はさらなる艦隊の建造と人員の配備のために必要な資源を割くことに消極的となった。また、仮に艦隊を建造したとしても、艦隊が完成する前にシチリアの守備隊が飢餓に陥り降伏する可能性が高かった[52]。このため、カルタゴの元老院はハミルカルに対し全権を委任してローマと和平交渉を行うように命じた。しかしながら、命令を受けたハミルカルは降伏は不要だと主張してこの命令に従うことを拒否した。何人かの現代の歴史家は、政治的な理由と威信上の理由から、ハミルカルは23年に及んだこの戦争の敗北を正式に認めることになる条約の締結に関わりたくなかったのではないかと指摘している。その結果、和平条件の交渉はシチリアでハミルカルに次ぐ高い地位にあったカルタゴ人であり、リリュバエウムの軍司令官でもあったギスコが仲介することになった[52][53][54]。
ギスコはシチリアで勝利を収めたばかりであったローマ軍の司令官であるカトゥルスと交渉を開始した。ローマでは毎年2名の執政官を選出し、それぞれに軍を指揮させるのが長年の慣例となっていた[注 5]。この時点でカトゥルスの任期は終わりに近づいており、後任がまもなくシチリアに到着する見込みとなっていた。カトゥルスはまだ自分に権限が残っているうちに最終的な和平を成立させ、長期に及んだ戦争を終結させたという功績を主張したいと強く望んでいたため、このような任期の差し迫った状況は交渉におけるカトゥルスの態度を軟化させた[53][56]。ギスコとカトゥルスは、カルタゴがシチリア全土から撤退すること、ローマ人の全ての捕虜を身代金なしで解放すること、ただし、ローマ側に捕らえられている捕虜の解放のためには身代金を支払わなければならないこと、銀2,200タレントの賠償金を20年割賦で支払うこと、そしていずれの側も相手の同盟国に戦争を仕掛けたり、直接同盟を結んだり内政に介入したりすることで相手の同盟関係を覆そうとしてはならず、相手の領土から兵士を募ったり公共事業のための資金を調達したりすることもできないという条件で合意した[57][58]。
条約案を批准する権限を持っていなかったカトゥルスはローマにこの条約案の批准を求めたが、ローマに複数あった民会のうちの1つであるケントゥリア民会がこの条約案を否決した[57][58]。その後、この問題を解決するために10人からなる委員会がシチリアに派遣されたが、この委員会の代表は当時すでに執政官としてカトゥルスの後を継いでいたカトゥルスの兄弟のクィントゥス・ルタティウス・ケルコが務めていた[57][58]。古代ローマに関する研究家のアダム・ジューコフスキは、ローマにはこの条約に反対する一派が存在し、恐らくは元執政官のアウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクスに率いられていた一派が戦争を完全に終結させることに反対していたと論じている。このようにローマの政策立案者内部において意見が一致していなかった可能性は、紀元前241年にアッティクスがケルコとともに再び執政官に選出されたという出来事からも窺い知ることができる[17][59]。

ギスコは先の条約案に加えてシチリアとアフリカの間にあるすべての小島から撤退すること[注 6]、賠償金を3,200タレントに増額し、追加分の1,000タレントについては直ちに支払うこと[注 7]、また、残額の支払期限を10年に短縮することといったより厳しい条件のローマの条約案に同意した[56]。ハミルカルは交渉がまとまると直ちにシチリアにおける軍の指揮権をギスコに譲り、そのギスコは正式に合意した条約の内容をカルタゴ本国へ報告することになった[60]。その一方でカトゥルスはローマに戻り、10月4日に凱旋式を挙行した[61]。
この条約に対する現代の学者の見解はさまざまである。ナイジェル・バグナルは、双方の交渉担当者は「現実的で妥当な要求を提示した」と述べ[52]、エイドリアン・ゴールズワージーは「講和の条件はカルタゴが敗北し、ローマが対等な相手と交渉しているわけではないことを明確にしていた」と記している[56]。一方でリチャード・マイルズは「紀元前241年に合意された条件は厳しいものだった」と主張しているが[49]、ブルーノ・ブレックマンは反対にこの条約が「驚くほど穏当」であったと考えており[62]、ハワード・ヘイズ・スカラードも同様に、カルタゴにとって「いくらか寛大」であったと述べている[63]。
サルディニアとコルシカのローマへの割譲
カルタゴはシチリアから総勢20,000人に及ぶ軍隊を北アフリカへ撤退させたが、撤退してきた軍隊との間で報酬をめぐる紛争が起きた。最終的に軍隊は反乱を起こし、傭兵戦争の名で知られる内乱が勃発した。カルタゴの領土の中核地帯に豊富な軍務経験を持つ反カルタゴ軍が結成されたという情報は瞬く間に広まり、多くの都市や町が同様に反乱を起こした。これらの都市の中にはカルタゴによって征服されたばかりの都市もあれば、終わったばかりの戦争の資金の調達のために過酷な徴税を強いられていた都市もあった。これらの都市の人々は70,000人に及ぶ兵力に加え、食糧と資金を反乱軍に供給した。ローマはカルタゴの混乱には乗じないという態度をはっきりと示し、カルタゴとの間で結ばれた条約を遵守した。イタリア本土の人々は反乱軍との交易を禁じられた一方でカルタゴとの交易は奨励された。ローマ側に捕らえられていた2,743人のカルタゴ人の捕虜は身代金なしで釈放され、直ちにカルタゴ軍に組み込まれた[64][65]。一方でシュラクサイの王ヒエロン2世は、カルタゴがもはや首都の後背地から得ることができなくなっていた大量の食糧をカルタゴに供給した[65][66][注 8]。紀元前240年の後半か紀元前239年の初頭にはサルディニアのカルタゴ軍の守備隊も反乱に加わり、自軍の将校と島の総督を殺害した[68][69]。これに対しカルタゴは島を奪還するために軍隊を派遣した。しかしながら、この軍隊も到着すると兵士たちが反乱を起こし、先に反乱を起こしていた守備隊と合流して島内のカルタゴ人を全て殺害した[68][69]。サルディニアの反乱軍はローマに庇護を求めたが、ローマはこの要請を拒否した[64][69][70]。

その後、恐らく紀元前237年にサルディニアの先住民が蜂起して反乱を起こした守備隊を島から追い出した。これらの追放された反乱者たちはローマの支配下にあったイタリアの地に逃れ、北アフリカで続いていた内乱が終結すると再びローマに支援を求めた。今度はローマも要請に応じ、サルディニアとコルシカの双方の島を占領するための遠征軍が準備された[53][71]。これに対しカルタゴもサルディニアに向けて遠征軍を派遣しようとした。そしてローマにはカルタゴが300年にわたって領有し続けているこの島を奪還するために遠征軍を準備していると説明し、先の戦争の講和条約を持ち出しつつ自らの行動の正当性を主張した。しかし、ローマの元老院はカルタゴの遠征軍の準備をサルディニア人ではなくローマに対する戦争行為とみなし、和平の条件としてサルディニアの割譲に加え、1,200タレントの追加の賠償金の支払いをカルタゴに要求した[72][73][74]。
このようにローマが数年前とは異なる態度を取った理由は史料からは明らかではないものの[64][75]、ブルーノ・ブレックマンは、「紀元前241年の講和条約は(ローマの)国内政治における激しい対立の中で極めて僅差で可決されたため、わずか数年後にカルタゴが無防備な状態となった際にカルタゴにサルディニアの割譲を強いる形で条約が「修正」されたことは驚くには当たらない」と述べている[76]。いずれにせよ、自国の内乱を含む30年にわたる戦争で弱体化していたカルタゴは、再びローマと対立するよりもローマの要求を飲む道を選び[74][77]、これらの和平の条件は補足条項として条約の内容に加えられた[72][78]。コルシカについてはこの補足条項の中で言及こそされなかったものの、結局はサルディニアと同様にローマによって占領された[79]。ポリュビオスはローマのこれらの行為について「あらゆる正義に反する」と批判しており[72]、現代の歴史家も「恥知らずな行為」[78]、「いわれのない武力行使と条約破り」[72]、「恥も外聞もない機会主義的行為」などとさまざまに批判している[71]。
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条約の影響
ローマにとって第一次ポエニ戦争の終結はイタリア半島を越えたローマの拡大の始まりを告げるものになった[80]。そしてシチリアはヒエロン2世が統治していたシュラクサイを除き、プラエトルが統治するローマの最初の属州となった[29]。その一方でローマはサルディニアとコルシカの先住民による反抗の封じ込めに従事せざるを得なかったため、少なくとも続く7年の間、両島に強力な軍隊の駐留を強いられた[81]。さらに、ローマによるサルディニアとコルシカの占領と追加の賠償はカルタゴ人の憎しみを買うことになり[77]、両国間の関係が恒久的に悪化する要因となった[72]。その後、紀元前218年に当時ローマの保護下にあったイベリア半島東部の町であるサグントゥムをカルタゴが包囲したことがきっかけとなり[注 9]、第二次ポエニ戦争が勃発したが[81][83][84]、ポリュビオスは戦争が再開されるに至った原因について、最終的にカルタゴがローマに割譲を強いられたサルディニアの問題までさかのぼることができると述べている[85]。
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脚注
参考文献
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