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第三次英緬戦争
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第三次英緬戦争(だいさんじえいめんせんそう、英語: Third Anglo-Burmese War、ビルマ語: တတိယအင်္ဂလိပ်–မြန်မာစစ်)は、コンバウン朝ビルマと大英帝国のあいだで1885年に行われた戦争である。この戦争の結果、コンバウン朝は消滅し、ビルマは全土がイギリス領インド帝国の一部に組み込まれた。
開戦
コンバウン朝ビルマ国王のミンドンが1878年に病死したのち、後を継いだのは当時21歳のティーボーであった。ティーボーを推挙したのはミンドン以来の改革を進めるべく自らの影響力を高めたいポーフラインら国務院(フルットー)であった。しかし、王妃のスパラヤッら保守派はポーフラインを殺害したのちミンドンの王子48人中31人を処刑して改革を阻んだ。王国が弱体化するとシャン諸王国の諸侯も離反し始め、イギリス領となっていた下ビルマではイギリスの企業家を中心にコンバウン朝侵攻が主張されはじめた[1]。
ビルマはイギリスの牽制のためインドシナの植民地化を進めていたフランスに接近しはじめ、1885年にはフランスと条約を締結して領事の王都・マンダレー着任を認めた[2]。この条約を通して、マンダレー・トンキン間の道路敷設やトンキン経由の武器輸送などが取り決められたが、1879年以降領事をマンダレーから引き上げていたイギリスにとってこれは看過しがたい出来事であった[3]。
1884年、ビルマはイギリス企業であるボンベイ・バーマ貿易会社に対して230万ルピーの罰金を科していた。これは、ビルマ政府から木材伐採権を取得していた同社が伐採量を過少申告していたことを理由とする処置であった。イギリス領ビルマ弁務長官は調査・調停を申し出ていたものの、ビルマ政府は一企業の問題であるとしてこれを拒否していた[4]。1885年10月17日、イギリスはビルマに対し同問題の調停受け入れと、すべての外交交渉をイギリス領インド政調の同意を得て行うべきことを通告した[3]。イギリスは10月22日に最終通牒を行い、ティーボーは11月9日にこれを事実上拒絶した。イギリスはこれをもって、マンダレーの占領とティーボーの廃位を決定した[5]。
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戦闘

イギリスは当時上ビルマの地理的知識をほとんど有していなかったものの、イギリス領下ビルマのラングーンからマンダレーまではイラワジ運行会社が蒸気船を運行しており、水路に関する知識は十分にあった。ハリー・プレンダーガスト率いる遠征隊は兵士9,034人、現地人従者2,810人、大砲67門と機関銃24丁から構成され、蒸気船・艀・ランチなど55隻からなる河川艦隊で輸送された[5]。
11月14日(13日とも[3])までに遠征隊は国境沿いの駐屯地であるタイェッに集結し、同日に上ビルマへの侵攻がはじまった。不意を付かれたビルマ軍はほとんど応戦することもできず、26日にはイギリス軍は旧王都であるインワまで進軍した。ティーボー王は降伏し、兵士の武装を解除するも、28日にイギリス軍はそのままマンダレーまで兵を進め、国王を捕虜にした。マンダレーの財宝は略奪され、90万ルピー(6万ポンド)の収益となった[5]。伊東利勝は第三次英緬戦争について「戦闘らしきものはほとんどなかった」[3]、根本敬は「戦闘らしい戦闘は起きなかったので、『戦争』という言い方は名目的なものだといえる」と論じている[6]。
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終戦
ティーボー王はインドのボンベイに追放され[3]、1886年1月1日をもってビルマ全土はイギリスに併合される。3月1日にビルマはイギリス領インド帝国の1州(5月1日までは準州)となった[7]。その後も反イギリス勢力は森林地帯にてゲリラ活動を続けたが、フレデリック・ロバーツにより鎮圧された[5]。
出典
参考文献
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