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第51師団 (日本軍)
大日本帝国陸軍 ウィキペディアから
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第51師団(だいごじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。茨城・栃木・群馬の三県を徴兵区とする常設師団として、1940年(昭和15年)7月10日に留守第14師団を基幹に栃木県宇都宮市で編成された。
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沿革
1940年(昭和15年)8月から常設師団のうちの8個師団が満州に永久駐屯することになり、代替の常設師団として同年7月10日に第51師団・ 第52師団・第54師団・第55師団・第56師団・第57師団の計6個師団がそれぞれ留守師団を基幹に編成された[1]。第51師団の管轄区域は宇都宮師管と称した。
師団は編成後当初は東部軍に所属し宇都宮に在ったが、1941年(昭和16年)7月に関東軍特種演習参加のため満州へ派遣された[2]。宇都宮師管の管区業務は留守第51師団が引き継いだ。
同年9月には華南に進出し第23軍に編入され、歩兵第66連隊基幹の荒木支隊が12月の香港の戦いに参戦する。その後も第23軍隷下広東に駐屯していたが、1942年(昭和17年)10月20日に南東方面の第17軍の戦闘序列に編入となった[3]。11月16日には新設の第18軍に移り[3]、ニューギニア戦線に転用され、ラバウルに進出した。
1943年(昭和18年)1月2日、ポートモレスビー作戦で東部ニューギニアのブナにいた第8方面軍傘下の部隊が玉砕し、師団は連合国軍の次の目標地であろうラエを守るべく2月28日にラバウルを出航した(八十一号作戦)。しかし、3月2日・3日にダンピール海峡で連合軍の空襲を受け、輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻が撃沈されダンピールの悲劇といわれる多大な犠牲を出した。 敵機の攻撃により甚大な損害を出した旨の情報は、3月3日のうちに昭和天皇に奏上。翌3月4日、昭和天皇は、拝謁に来た参謀総長杉山元に対して、第51師団の輸送失敗について教訓にすべしとの話をした[4]。
→詳細は「ポートモレスビー作戦 § バサブア、ブナ守備隊玉砕」;および「ビスマルク海海戦 § 八十一号作戦」を参照
その後小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により上陸した1個連隊ほどの兵員もラエ・サラモアの戦いに敗れ、サラワケット越えを敢行しての撤退は悲惨を極め、さらに連合国軍の飛び石作戦に翻弄され飢餓との戦いを続けることになる。八十一号作戦の出撃時点で約16,000人いた人員が、1945年(昭和20年)のアイタペの戦い後には2,754名となるなど激しく戦力を消耗しつつも総員玉砕は免れ、終戦まで存続して体面上は任務完遂を果たした。
→詳細は「サラワケット越え § その後」、および「アイタペの戦い § その後の戦闘」を参照
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師団概要
歴代師団長
参謀長
最終所属部隊
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脚注
参考文献
関連項目
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