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細谷雄太

日本の科学者 ウィキペディアから

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細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 1950年11月20日[1])は、日本の俳人医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。

経歴

1882年4月、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。旧制第一高等学校東京帝國大学医科大学を卒業。

最初は定型俳句の俳人として「一高俳句会」に所属。のち新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、また荻原井泉水とも交流する中で新傾向、自由律俳句に傾倒する。新傾向俳句機関誌『層雲』の同人となり、のちに自由律俳句誌の『海紅』創刊にも参加。古くからの碧門だったが、碧梧桐が海紅離脱後に立ち上げた『碧』や『三昧』にはついて行かず、中塚一碧楼が主宰となった海紅に残った。 それでも1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤状態に陥ると真っ先に見舞いに詰めかけている[2]

1940年(昭和15年)、一碧楼が大政翼賛会発足に伴い結成された日本俳句作家協会(後の日本文学報国会)で理事に就任した際は評議員となった[3]。1950年11月、68歳で死去。

医師として

細谷不句は医師であり医学研究者でもあった。専門は耳鼻咽喉科学。弟の細谷雄二も同じく医学博士で生理学者アララギ派の歌人でもあった。

句集

  • 『不句襍成』(1933年)
  • 『日々吟四年間』(1937年
  • 『日々吟五年間』(1942年
  • 『日々吟八年間』(1950年)

主な著書

  • 『喉頭結核及其療法』 半田屋医籍 1909年
  • 『危険性耳病及其療法』 南江堂 1910年
  • 『新自然哲学』 春秋社 1922年
  • 『日本外科全書5巻』 吐鳳堂 1928年
  • 『細谷耳鼻咽喉科学』 南山堂書店 1924年
  • 『耳鼻咽喉科診療の実際』南山堂書店 1933年 

代表句

  • 串ざしの蛤みな干上がり串太き秋の日
  • 春日のビフテキの店柿いろの暖簾を垂れ
  • 蟷螂とぶとき身軽うわれらが方へ

脚注

参考文献

外部リンク

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