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終戦の表情
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『終戦の表情』は、第42代総理大臣鈴木貫太郎の談話録。
労働文化社の河野来吉が8時間の談話を整理し、昭和21年8月に「労働文化」の別冊として出版した[1]。労働文化版で63ページの小冊子である。
1948年の東京裁判判決が出る前であり、それに影響する可能性のある細かい事情までは触れていない。
内容
要約
視点
『終戦の表情』自体には背景の説明は少ないので、以下は背景となる事項に『終戦の表情』内の文章を加えたものである。
戦時最終内閣成る
余としてはもちろん首相などになる意志は毛頭なかったのである。(中略)政治についてはまったく素人であり、従来陛下の側近において長らく奉仕して参っただけであって..
- 4月7日 鈴木貫太郎内閣成立。書記官長(現官房長官)は迫水久常。陸軍大臣は阿南惟幾。海軍大臣は米内光政の留任。貫太郎の長男鈴木一が秘書官[注 2]。(4月9日外務大臣に東郷茂徳。)
- この4月7日午後2時すぎ 屋久島西200kmで戦艦大和が沈没。
→詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照
- 4月8日 『国力の現状』の分析を迫水に命じる。
組閣早々、まず全日本の生産状態、軍事基地の設備状態を徹底的に調査させてみた。その結果、七、八月頃には重大な危機に直面するということを想像するにいたった。
- 4月12日 フランクリン・ルーズベルト米大統領が死去。13日それに対する弔意を同盟通信を通じて発表。
和戦を胸中に秘めて
余は閣議をリードすることなく、もっぱら聞き役に回り、意見は存分に述べて貰うこととした。
- 5月7日 ドイツ無条件降伏。
当面の問題として沖縄戦においてある程度先方を叩いたら和議を踏み出してみようと思っていたのである。ところが、沖縄の戦局は日に日に我が方の不利となり、本土へのB29の来襲は急速度を増し、かつ大規模な編隊による爆撃がくり返されるようになった。
広田弘毅氏を煩わして、ソ連側マリック氏との私的会談を進めて貰うことにした。この会議は最初やや順調に進みつつあったようであるが、我が方の沖縄作戦が徹底的に不利になるに及んで一頓挫をきたしてしまった。
- 6月6,8日 『国力の現状』報告をもとに最高戦争指導会議。国力が払底していることが確認されたが、本土決戦の方針は不変。
もはや目前に敵の侵寇を控えた現在としては、皇土と民族を護りおおせれば我が方の戦争目的は遂行されたものと見做すという悲痛な戦争目的の転換説が台頭した。
陛下には親しくご懇談あらせられ、戦争に関してなんらかの方法をもって速やかに終結するように考慮するようにとお諭しがあった。
滅亡か終戦か
- 7月27日 米英中名義のポツダム宣言を外務省が受信。閣議はこれに対しノーコメントの方針。
- 7月28日 鈴木は記者会見で「私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては、なんら重大な価値あるとは考えない。ただ、黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまでも邁進するのみである[注 5]。」と発言。ロイターとAP通信は「黙殺する」を'reject(拒否する)'と翻訳。
内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり..
- 8月6日 am8:15広島市への原子爆弾投下。
- 8月7日 広島の爆弾は原子爆弾であるとトルーマンが声明。8日広島に行った仁科芳雄も原子爆弾と断定。
余はこの上は終戦する以外に道はないとはっきりと決意するに至った。
- 8月8日 モスクワ時間17時(日本時間23時)、ソ連のモロトフ外相が駐ソ佐藤尚武大使に、8月9日に対日参戦すると通告。
- 8月9日 0時からソ連対日参戦。10:30-13:00最高戦争指導会議。11:30長崎市への原子爆弾投下。14:30-22:00閣議。ポツダム宣言の受諾条件の議論がまとまらず。
余はそこで、閣内の意見対立のまま、いたずらに時を過ごすことは、一分を争う現下の情勢に忠実ならざること主張し、かくなる上は、陛下のご聖断を仰ぎ奉ろうと決意したのである。
- 8月9日 23:30御前会議招集[注 6]。8月10日am0:03開始。
ところがこの八月九日から十日の午前二時にかけての御前会議においては、出席者の意見が三対三で根本的に対立してしまったのである。(中略)
そこで余は、起立し、「議を尽くす事すでに数時間、なお論議はかくの如き有様で議なお決せず、(中略)これより私が御前に出て、思召をお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます」と述べ、(中略)
余のお伺いにたいして、深くうなずかれ、余に自席へ戻るよう指示遊ばされてから、徐ろに一同を見渡して「もう意見は出つくしたか..」と仰せられた。一同は沈黙のうちに頭を深くたれて、陛下の次のお言葉をお待ち申し上げたのである。
「それでは、自分が意見をいうが、自分は外務大臣の意見に賛成する。」と仰せられた。ご聖断は下ったのである[注 7]。
- 8月10日 am2:20聖断で御前会議終了。am3:00-4:00閣議再開し聖断を閣議決定。am6:45天皇制維持を保証するならポツダム宣言を受諾すると連合国へ電報。20:00同盟通信がこれを世界へニュースとして発表。
- 8月11日 バーンズ国務長官は天皇制是非についての回答を英ソ中と調整。
- 8月12日 天皇制についてのバーンズ回答が電文される。「天皇の権限は連合軍最高司令官の下に置かれる。」15:00-17:30閣僚懇談会。
- 8月13日 9:00-15:00最高戦争指導会議。16:00-19:00閣議。バーンズ回答を受け入れるか紛糾。
- 8月14日 10:00再閣議。それを11:00-12:00の緊急御前会議[注 8]に切り替え、再度天皇の意を確認。
三名の意見開陳後、陛下には最後の断を下し給うたのである。
「自分の意見は去る九日の会議に示したところとなんら変わらない。先方の回答もあれで満足してよいと思う。」と仰せられ..[注 9]
無条件降伏の時の間に
- 8月14日の続き 23:00終戦詔書完成。玉音盤の録音。ポツダム宣言受諾を連合国に通告。阿南陸相が首相室の鈴木に挨拶。
阿南陸相は余のところに挨拶に来られて 「自分は陸軍の意志を代表して随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが反って種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、深く陳謝致します。」と語られたのであるが[注 10]、
(中略)それから二、三時間後、阿南氏は見事に武人としての最後を飾って自決されたのである。
敗戦日本の一年
- 12月15日 鈴木は枢密院議長に復職。
- 翌年6月11日 枢密院議長を辞職。
こういうことであろう。日本国民が嘘をつかぬ国民になることである。そして絶えざる努力を続けてゆくことである。それ以外に道はない
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脚注
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