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絞死刑 (映画)

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絞死刑』(こうしけい)は1968年公開の日本映画作品。大島渚監督した。小松川事件を題材にして、死刑制度や在日朝鮮人の問題などが描かれている[2]

概要 絞死刑, 監督 ...

概要・沿革

1958年8月、東京都江戸川区の小松川高校の屋上で女子学生の遺体が発見され、同年9月1日に小松川警察署は18歳の在日朝鮮人の李珍宇(イ・ジヌ、이진우)を殺人の容疑で逮捕した[3]。逮捕前に読売新聞社に犯人と名乗る男から電話があったり、取り調べの中で李が別の女性の殺害を自供したりしたことなどから、事件は大きく報道された(小松川事件)。当時助監督でシナリオを書き続けていた大島渚は「この事件は必ずいつかは作品化しなければならない」と固く心にちかったという[4]

一審、二審ともに死刑判決が下され、文筆家を中心として助命請願運動が高まるも、1961年8月に最高裁は上告を棄却した。そして翌1962年11月16日に死刑が執行された。大島は映画製作を決心し、1963年、『天草四郎時貞』(1962年)でフォースの助監督を務めた深尾道典にシナリオの執筆を依頼した。深尾が書いたシナリオは『いつでもないいつか、どこでもないどこか』とタイトルが付けられた[4]。そしてこの年の5月に李珍宇と朴壽南の共著『罪と死と愛と』(三一書房)が出版される。大島はこう綴っている。

私の考えでは、李珍宇は戦後日本の生んだ最高の知性と感性を兼ね備えた青年である。朴寿南氏の編んだ李の書簡集「罪と死と愛と」がそのことを示している。私はこの李の文章を高校の教科書に採用すべきであると思う[5]

1967年6月、ATGが最初に資金提供した今村昌平監督のドキュメンタリー映画『人間蒸発』が公開された[2][6]。ATGと今村プロダクションが500万円ずつ出し合い、計1000万円の資金でつくられた。当時、劇映画は低予算のものでも3000万円ぐらいが常識であった。劇映画で「一千万円映画」がつくれるかどうかは未知数の冒険であったが、その第1作の製作が大島の創造社が資金の半分の500万円を出すことで決まった。深尾が書いたシナリオはそのまま採用せず、改めて田村孟佐々木守、深尾、大島の4人で合作して書かれた[2]。大島らは『罪と死と愛と』の文章を相当量引用するなどしたが、李珍宇と朴壽南の名は映画でクレジットしなかった[注 1]。死刑囚の「R」は李珍宇を、Rが「お姉さん」と呼ぶチマ・チョゴリ姿の女性は朴壽南をモデルにしている[7]

1968年2月3日に公開。1969年5月の第22回カンヌ国際映画祭に出品された[1]

キネマ旬報』の1968年度日本映画ベストテンで3位、『映画評論』の同ベストテンで2位に選出された[8]

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あらすじ

主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に延々と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。

スタッフ

出演者

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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