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芦野屋麻績一

江戸時代後期の国学者、鍼医 ウィキペディアから

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芦野屋 麻績一(あしのや おみいち、享和3年(1803年) - 安政2年10月2日1855年11月11日))は、江戸時代後期の国学者鍼医。東洋堂と号した[1]。「あしのや」は阿斯能舎、阿斯能谷、阿斯能夜、阿斯廼夜、蘆野屋とも書く。

人物

享和3年(1803年)、江戸において武家の子として生まれる[2][3]。幼いころ、徐々に視力が悪化し失明して盲人となり、のち天保8年(1837年)には検校の地位を得た[2][3][4]。幼時、瞽師が紫衣を身にまとうのを見た麻績一が、その美しさに自分も瞽師になりたいと心の内で願い、果たして失明したとの逸話がある[2]

国学者の岸本由豆流(別名・朝田弓絃)や、塙保己一の側近であった雨富龍謙一(雨富流謙一)に師事して国学を学び、国学者として知られたほか、の名手としても知られた[2][3][4][5]。さらに、海防書『野芹』を著わして幕府に献じた他、多数の著書があった[5][6]。古典、中でも『源氏物語』に通じていたといい、和歌も良くしたという[3][6][7]

安政2年(1855年)10月2日、患家に向かう途中、折から江戸を襲った安政の大地震のため圧死[3][4][6]天徳寺塔頭栄閑院に葬られた[6][8]。戒名は広道院正誉慈門大居士[9]

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脚注

参考文献

関連文献

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