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荘献世子

李氏朝鮮の王族。第22代国王正祖の父 ウィキペディアから

荘献世子
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荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日1735年2月13日) - 乾隆27年5月21日1762年7月12日))は、李氏朝鮮の第21代国王英祖の次男。は愃(フォン、)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、사도세자)とも呼ばれる。第22代国王正祖の父。第23代国王純祖の祖父、第24代国王憲宗の高祖父、第25代国王哲宗の曾祖父である。

概要 荘献世子, 続柄 ...
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生涯

異母兄である孝章世子がいたが、早くに夭折し英祖唯一の王子という理由で2歳で王世子に冊立され、10歳で恵慶宮洪氏と結婚した。少論派の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握した老論派と対立した。1749年に世子が英祖の代理として政務を処理するようになると、老論派は貞純王后(英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子を陥れた。英祖との葛藤で世子の李愃は精神を病むようになったと『恨中録』(恵慶宮洪氏の随筆)には記録されている。

ただ、今日の学会の主流的な見方は、政争は要因として全くないわけでないが、両者の葛藤の主たる要因は、英祖の荘献世子への後継者としての過度の期待が叱責と侮辱という形で繰り返され、その重圧に耐えかねた荘献世子が精神に異常をきたすようになり、ついに殺人を犯すほどの不行状に至ったところで、父が子の排除を決断したというものである。

1762年に老論派が糸を引いた羅景彦朝鮮語版が世子の非行を英祖に奏上した。英祖は羅景彦を死刑に処する一方、李愃を廃して米櫃の中に閉じこめ、李愃は8日後に飢死した(壬午士禍)。後にこれを悔やんだ英祖は「思悼綏徳敦慶弘仁景祉章倫隆範基命彰休賛元憲誠啓祥顕熙荘献世子」とし1777年 には正祖が「荘献」と追尊した。また現在のソウル市東大門区の梨峰山にあった墓を水原に移した。光武3年(1899年)、皇帝に即位した義理の玄孫である高宗により「荘祖」の廟号と、「神文桓武荘献広孝大王」、後に「懿皇帝」の諡号を追贈された。

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家族

両親・兄弟姉妹

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妃嬪

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王子

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王女

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系図

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登場作品

英祖と正祖の2人の名君の間にあって、非業の死を遂げることになった荘献世子は、現代では歴史のミステリーとして韓国国民の興味を惹いており、「思悼世子刑死」を題材としたドラマは多い。荘献世子の他にも、英祖と正祖時代全般が媒体でよく利用される時代の一つだ。歴史的考証の側面では、2015年の映画王の運命 -歴史を変えた八日間-が推薦される。

映画
テレビドラマ
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