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藤井千尋
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藤井 千尋(ふじい ちひろ、1837年3月22日(天保8年2月16日)[1] - 1900年(明治33年)3月15日[2])は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚・神職。第一次奈良県権令。幼名・弘助、明治3年(1870年)に「千尋」と改名[2]。
経歴
上野国群馬郡、後の群馬県西群馬郡滝川村(現高崎市)で生まれる。貧困のため、父と江戸に出て商家で働く。二十歳頃に幕府御馬所見習となり、馬術などを修業。尊王思想を抱き、幕府の追及から逃れるため「群馬隼人」と名前を変えて各地で遊説した[2]。
明治維新後、明治2年6月4日(1869年7月12日)、徴士弾正台大巡察に任官。以後、監督司出仕・十等官、地方巡察、堺県大参事、同県権参事、同参事などを歴任。1873年11月、奈良県権令に就任。1875年6月から1876年2月まで五等判事を兼務した。1876年4月に奈良県が堺県に統合され廃官となった[3]。
1882年11月から翌年5月まで、大阪府豊島・能勢郡長を務めた[3]。1886年11月、大阪府の生國魂神社宮司に就任[4]。
脚注
参考文献
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