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藤原経子 (冷泉永経女)

鎌倉時代後期の後宮女官 ウィキペディアから

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藤原 経子(ふじわら の つねこ/けいし)は、鎌倉時代後期の女官歌人伏見院中務内侍(ふしみいんのなかつかさのないし)、または単に中務内侍(なかつかさのないし)の女房名で知られる。冷泉を号した宮内卿藤原永経の女子。

掌侍(内侍)として伏見天皇に仕え、その日々を『中務内侍日記』に綴った。

来歴

弘安3年(1280年)12月以前から後深草上皇仙洞冷泉富小路殿[注 1])において上皇皇子で東宮であった熈仁(ひろひと)親王(後の伏見天皇)の許に出仕しており[1]、上臈の大納言殿[注 2]の下で新宰相[注 3]やら宮内卿[注 4]やらの女房と傍輩意識を共有しつつ仕えるが、同時に東宮近臣の土御門具顕京極為兼やらとも、傍輩共々東宮を盛り立てるべく連帯感をもって交友する[8]。因みに、当時は東宮を中心に『源氏物語』を愛好する『源氏』クラスタが形成されており、その同人活動は具顕の『弘安源氏論議』に結実するが、経子も大いに『源氏』に感化されていた様が後年の回想録(『中務内侍日記』)の特に前半部から窺え、他にも『狭衣物語』といった物語物を愛読していたようである[8]

弘安10年(1287年)10月、東宮が践祚すると同年12月10日に掌侍に補せられて引き続き禁裏に仕える[9]。なお、新補掌侍は3人で[注 5]、最年少であったためか他は内侍既験者で召し名が定まっていたためか、宮仕当初には新内侍と呼ばれたが、後に父永経の元官である中務大輔に因むらしい中務と改称され、その時期は不明であるが、正応3年(1290年)3月頃であった可能性がある[注 6][10]

伏見天皇の宮中では、弘安11年(正応元年)3月15日の即位儀璽の御筥を捧持し[11]、同年11月大嘗会では主基方(すきかた)女工所(にょくどころ)の勾当()として女官を差配する[注 7]際に実家の力添えで衣紋道の家(高倉家)の出としての面目を大いに施した他、正応3年2月に後深草上皇の発願で始められた春日臨時祭では臨時祭とは言え氏神への初の内侍使に遣わされた事を誉れに思ったり、翌月の浅原事件では玉体及び玄象と剣璽の避難に気を配ったりと[1]、そこには自らの出自や内侍としての誇りを胸に伏見天皇に誠心誠意を以て仕えた様子が窺えるが、それは後宮女房の典型と言える姿でもあった[8]

正応5年3月末に病を理由に後宮を退くが[12][注 8]、時に30代の前半から40歳前後だったと考えられる[14]。致仕後の動向や歿年は定かでないが宮廷生活を主とした自身の経験を回想記として取り纏めた『中務内侍日記』を遺し、同日記は典型的な宮廷女房による典型的な女房日記と評価される[8]ほか、『玉葉和歌集』に2首入集されており[注 9]、それが同日記中に見えない事からは家集のようなものも遺されていた可能性すら指摘されている[17]。因みに宮仕中は京極派の代表と目された上記為兼と[注 10]歌の贈答を交わしていたにかかわらずそれらの歌には同派の歌風が認められない事から、同派の確立は早くて経子が宮中を去った正応5年以後であろうとも考えられている[18]

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注釈

  1. 殿地は南北が二条大路と冷泉小路の間、東西が京極大路と富小路間。「平安京図」参照。
  2. 恐らく時の大納言典侍であった四条隆親女で『とはずがたり』に「京極殿」と見える二条の叔母[2]。名字は識子[3]やら栄子[4]やら隆子[5]やらといろいろ。
  3. 恐らく楊梅親忠女の伏見院新宰相[6]
  4. 藤原季範女[7]
  5. 他の2人は菅原是子と藤原娟子[9]
  6. 公卿補任』によれば永経が中務大輔にあったのは弘安9年3月から10年正月迄のおよそ10箇月で、散位を経て正応元年(1288)7月16日に修理権大夫、同4年4月6日に宮内卿に遷任している(従って正応3年当時は修理権大夫)。
  7. 因みに悠紀方勾当は勾当内侍高階典子。
  8. 同月1日の天皇の内侍所(賢所)御拝奉仕が最後の公務であったと思われる[13]
  9. 巻第2春歌下、花歌とて「年をへてかはらずにほふ花なれど みる春ごとにめづらしきかな」[15]、巻第13恋歌5、「かはる世のうきにつけてぞいにしへの あはれなりしもおもひしらるる」[16]
  10. 新宰相が為兼とともに京極派の代表と目された伏見院新宰相であれば彼女とも。
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出典

参考文献

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