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西原検校

妙門派の波多野流平曲家 ウィキペディアから

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西原 検校(にしはら けんぎょう、1835年(天保6年) - 没年不明)は、妙門派の波多野流平曲家(琵琶法師)[1]、三絃筝曲家。明治以降の名前は西原 豊政

1835年(天保6年)9月摂津国西宮生まれ。酒樽製造を営む樽屋武右衛門の長男として生まれる。幼名は樽屋栄蔵[2]。小児時に病気で失明[3]し、妙門派の清原検校(城秀。元吉原城秀、大阪。嘉永5年権成)を坊[4]とする。祖父[5]は八重橋検校(城芳、大阪。文政2年権成)。1867年(慶応3年)5月14日に検校へと権成した[1]

波多野流平曲の継承者である京都の岸部城郡(安永2年権成)[6]の弟子の岸並城民(寛政8年権成)が職総検校[1]となり、門下から有力な検校を輩出した。八重橋検校もその弟子の一人であり、その最後の直系弟子。

江戸時代に設けられた盲人の任官制度においては、昇進するたびに高額の支払いを伴うことから、最高位の検校への昇進は60歳代が多く、また、貸金業等の副業を行うものが多かったといわれている。灘の酒樽製造を行う家の長男であった西原検校の32歳での権成は異例の早さであったが、明治維新を受けて盲人の任官制度が廃止され、終身制となる検校の特権は享受できず、また、盲人の専業とされた平曲も途絶えることとなり、三絃筝曲家へと転じた。

樽屋武右衛門家を継いだ次弟の六男が、やはり病で幼少時に盲目となったことから、三絃筝曲の手ほどきをした。後の生田流筝曲・野川流三絃の大検校菊西繁樹である。孫に都山流尺八奏者の西原楽山(豊治)がいる。

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出典

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