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覚助法親王
鎌倉時代から南北朝時代にかけての法親王 ウィキペディアから
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覚助法親王(かくじょほっしんのう、宝治元年(1247年)[1] - 延元元年9月17日(1336年10月22日))は鎌倉時代から建武の新政、南北朝時代初頭にかけての天台宗の僧、歌人。後嵯峨天皇の皇子で、母は刑部局・藤原孝時の娘、博子。
経歴
幼くして聖護院に入って文永3年(1266年)に門跡に就任、園城寺長吏、天王寺別当[2]などを歴任した。正安2年(1300年)二品に叙され、後に一品に至る。建武の新政崩壊後の延元元年(1336年)9月17日に90歳で薨去。
歌人としても活躍し、権大納言・二条為世などと交流があった。また、『続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に89首が残っている[3]。自邸でも歌会を開いたという。
脚注
参考文献
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