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訛里朶

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訛里朶(オリド、寿昌2年(1096年) - 天会13年5月11日1135年6月24日))は、皇族。漢名は宗輔、後に宗堯。初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の五男。

概要 訛里朶(オリド), 続柄 ...

経歴

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景陵の墓石

妃の僕散氏(宣献皇后)の子として生まれた。『金史』によると、威風凛々とした容貌の持ち主で、寛大で包容力があった。また、家臣たちに対して、恩顧を恵むような政務を行い人望が厚かった。

天会13年(1135年)に南宋へ討伐に赴いた時に、病を得て41歳で逝去した。訛里朶の死の報を聞いた家臣で泣かぬ者はなかったという。

後に長男の葛王烏禄(ウル)が暴君であった従兄の迪古乃(テクナイ、海陵王)を廃して第5代皇帝世宗として即位すると、亡父に対して睿宗廟号立徳顕仁啓聖広運文武簡粛皇帝諡号を贈り、大房山に丁重に葬って「景陵」と名付けた。

宗室

妻妾

子女

  • 葛王 烏禄(世宗)
  • 斉王 吾里補
  • 楚国公主
  • 冀国公主

その他多数

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