題号は江戸時代 に瓦版 を読みながら売っていた「読売」に由来する。創刊時には、他に「ふりがな新聞」「やはらぎ新聞」「東西南北」などの案があった。
2020年 の読売新聞社の調査では、9都府県(茨城県 ・埼玉県 ・千葉県 ・東京都 ・神奈川県 ・滋賀県 ・大阪府 ・和歌山県 ・山口県 )で県内シェア1位[6] 。関東 のみならず、もともと大阪発祥の朝日新聞 や毎日新聞 の地盤であった関西 地区でも朝日・毎日を上回るシェアを有している。その他、25道府県で地元の県紙 やその他の全国紙に次ぐ県内シェア2位であり、大都市圏以外にも地方部も含めて全国的に広範な販売網を持つ[6] 。一方で東海地方 においては名古屋市 に本社を構える中日新聞 などの地元紙や朝日新聞などの牙城を崩せず、比較的シェアが低い[6] 。
2009年 の新聞通信調査会の調査では、全国紙 5紙の中では最も保守 的論調であるとされている(5点を中心に保守をプラス、革新をマイナスに0-10点でスケールを取ったとき、読売新聞5.6、産経新聞 5.3、日本経済新聞 5.2、毎日新聞 5.0、朝日新聞 4.4)。
歴史的に見れば、読売新聞の論調はその時々の時代背景に応じて変化し、一定ではない(ただし、この流れは全国紙で最も革新とされる朝日新聞も同様である)。
讀賣新聞のホーロー看板 縦書き(1字改行、俗にいう右書き)にすると丁度「賣」2つで「言」を両脇から挟む形になる
1874年 11月2日 合名会社 「日就社 」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県 出身の子安峻[注釈 2] 。創刊号は表裏2ページ[7] 。創刊当時は1日おき発行の隔日刊紙で、漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。しかし、創刊号の発行部数は約200部で、実売は半分にも満たなかった[8] 。
1875年 日刊紙に移行。年末には発行部数が1万7000部を達成[8] 。
1891年 5月15日 紙齢5,000号を達成[7] 。
1897年 1月1日 尾崎紅葉 作の小説 『金色夜叉 』が連載開始。
1904年 5月7日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを開始する(〜1905年 9月29日)[9] 。
1905年4月8日 紙齢10,000号を達成[7] 。
1906年 10月2日 現在のスポーツ面にあたる「運動界」欄を新設。
1914年
『身の上相談』(現在の『人生案内 』)連載開始。
4月3日 現在の生活家庭面(くらし面)にあたる「よみうり婦人附録」新設。与謝野晶子 が詩や評論を執筆。
8月1日 横浜市 に初の地方支局を開設。
1915年 4月3日 1面が全面広告になる(〜1923年 9月11日、1923年11月11日〜1936年 12月31日)[10] 。
1917年 12月1日 商号を「日就社」から「読売新聞社 」に改称。
1919年 1月5日 紙齢15,000号を達成[7] 。
1923年 9月1日 関東大震災 で社屋が炎上[8] 。1920年代初めには13万部を超えていた部数が5万部台にまで落ち込む[8] 。
1924年 2月25日 関東大震災後の経営難から、前警視庁 警務部長、後の自民党 衆議院議員 である正力松太郎 が買収。正力の社長就任で今日に至る読売新聞発展の基礎を築いた。
1925年 11月15日 「よみうりラジオ版」新設(テレビ ・ラジオ 欄=番組表 の先駆け)。
1931年
6月1日 社説 の掲載を開始。
11月25日 夕刊 の発行を開始。
1932年 10月22日 紙齢20,000号を達成[7] 。
1934年 12月26日 大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ )創設。部数拡大に大きく貢献する。
1938年 朝刊発行部数が100万部を突破[8] 。
1942年 8月5日 新聞統制 により、報知新聞社 を合併。「讀賣報知 」に改題。
1944年 朝刊発行部数が191万部を達成[8] 。
1945年
5月25日 東京大空襲 で銀座社屋が炎上、築地本願寺 に仮事務所を設置。
5月27日 読売報知・朝日新聞 ・毎日新聞 ・日本産業経済 ・東京新聞 の5社共同による「共同新聞」を発行。
7月27日に論評なし公表されたポツダム宣言 を、翌7月28日「笑止、対日降伏條件」と報道し、同日、鈴木貫太郎 首相の記者会見上の「黙殺」発言を7月29日に報道。海外にも受信され連合国が硬化する一因となる。
戦後は朝刊発行部数160万部からスタートする[8] 。
9月15日 本社が千代田区 (当時: 麹町区 )有楽町 の読売別館(現在の読売会館 の場所)に移転。
10月23日 社員大会が行われ社内民主化を決議[11] 。経営方針をめぐり、第1次読売争議 が発生(12月11日終結)。
11月12日 「漢字 を廃止せよ」との社説を掲載し漢字廃止(国語国字問題 参照)を推進。
12月12日 第一次読売争議が終結。会社側が論説委員ら5人の解雇を撤回、正力松太郎社長の退陣も決まる[12] 。
正力松太郎社長がA級戦犯 容疑で逮捕。巣鴨拘置所 に収容される(1947年 不起訴で釈放後公職追放 )。
馬場恒吾 、社長就任。
1946年
5月1日 題号「讀賣新聞 」に復帰。
6月13日 第2次読売争議 が発生(10月16日終結)。
7月1日 従来の縦書き楷書体題字に代えて印南渓龍 が書いた横書きの隷書体による現行題字の使用を開始。
8月10日 紙齢25,000号を達成[7] 。
9月1日 「読売信条」を発表。
10月6日 ラジオ欄が一時的になくなる(〜25日)[10] 。
1947年 12月6日 読者投票による「日本十大ニュース」の募集を開始(海外版は1989年 から開始)。
1949年
1950年 6月1日 読売新聞社が株式会社 に改組。
1951年 正力松太郎の公職追放解除。
1952年 11月25日 大阪市 で「大阪讀賣新聞」創刊(後の読売新聞大阪本社 )し、務臺光雄 (後の読売新聞社 社長・名誉会長)が初代社長に就任した。それまで東日本 のブロック紙 にすぎなかったが、関西 ・西日本 に本格進出を果たした。朝日新聞 ・毎日新聞 と並ぶ全国紙 としての礎を築く。
1953年
1月20日 テレビ欄を設ける[10] 。
8月28日 読売新聞社などの出資による日本初の民間テレビ局・日本テレビ放送網 (日テレ)が本放送を開始。
1955年 1月1日 正力松太郎 の命令により、原発導入を図るため大キャンペーンを展開開始。
1955年 4月1日 英字新聞『ザ・デイリー読売』(THE DAILY YOMIURI)創刊。
1958年 朝刊発行部数が300万部を突破[8] 。務臺光雄が大阪に準キー局 の讀賣テレビ放送 を開局させる。
1959年 5月1日 札幌市 に北海道支社開設。現地印刷開始。
1960年 5月10日 紙齢30,000号を達成[7] 。
1961年 5月25日 富山県 高岡市 に北陸支社開設。現地印刷開始。
1962年 4月1日 読売日本交響楽団 設立。
1964年 9月23日 当時九州地方最大の都市であり、鉄道交通の要所であった福岡県 北九州市 に「読売新聞西部本社 」設立。九州・山口版の現地印刷開始。
1966年 6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ 日本公演を主催。
1967年
朝刊発行部数が500万部を突破[8] 。
5月 家庭面で「こどもの詩」のコーナーがスタート[13] 。
1971年 10月29日 読売新聞社、本社が中央区 銀座 から千代田区大手町 1丁目7番1号に移転。跡地はプランタン銀座 を経てマロニエゲート (銀座2&3)になっている。
1974年
2月1日 紙齢35,000号を達成[7] 。
10月11日 昭和天皇 ・香淳皇后 が読売新聞社(大手町)に来訪。
11月2日 創刊100周年。
1975年
北東北 (青森県 ・岩手県 ・秋田県 )向けの新聞印刷工場を青森市 に開設(分散印刷工場の第一号)。
3月25日 名古屋市 で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。なお中部読売は当初、不当廉売事件などの影響もあり、全国紙の一部でありながら日本新聞協会 の正会員の申請ができなかったが、1987年 に正会員となった。
1977年 2月 朝刊発行部数が720万部と『朝日新聞 』を抜き、日本一となる[8] (世界一の発行部数となったのは1990年代、ソ連→ロシア の『プラウダ 』『コムソモリスカヤ・プラウダ 』などが部数を大きく減らして以後である)。
1978年 『ギネスブック』(現:『ギネス世界記録 』)(1979年版)に「共産圏を除いて世界で最大の発行部数をもつ新聞」と記載される[14] (2009年版にも「日刊紙の最大発行部数」として掲載[8] )。
1979年 渡邉恒雄 (現読売新聞グループ本社 会長)が論説委員長に就任。
1980年 空白の一日事件 や読売ジャイアンツ 長嶋茂雄 監督解任に対する不買運動に遭う。
1980年 宝塚市学童誘拐事件 において、被害者の安全を考慮せずに報道協定 を破りフライング報道を行う。兵庫県警記者クラブは3か月間除名する処分に留めた[注釈 4] 。
1982年 4月1日 植田まさし 作の4コマ漫画 『コボちゃん 』が連載開始。
1987年 10月25日 紙齢40,000号を達成[7] 。
1988年 6月1日 中部讀賣新聞社が読売本体と合併し読売新聞中部本社となり、題号から「中部」が外れる。
1989年 12月1日 被疑者 の呼び捨てをやめ、「容疑者 」などの呼称を付ける。
1994年
5月 日本ABC協会 の報告により、朝刊発行部数が1000万部を突破(1001万9985部)[8] 。
11月3日 当時の社長である渡邉恒雄の下で、主要なマスコミ で初めて「憲法改正試案」を発表して、日本国憲法 の改憲を主張。憲法 について再考する一つのきっかけになった。
1995年 6月16日 デジタル版であるYOMIURI ONLINE (現在の読売新聞オンライン)を開設。
1999年 2月1日 経営難の中央公論 社を買収し、中央公論新社 を設立。
2000年
1月1日 「読売信条」を改定。
1月26日 全国の販売店の呼称を「読売センター」(略称: YC)に統一。これまでは東京と西部が「YSC」、大阪が「読売IC」の呼称だった。
12月1日 紙面の文字拡大。「第二次文字拡大ブーム」に火を付ける。
2001年
1月 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が1031万91部を達成(過去最高)[8] 。
7月17日 紙齢45,000号を達成[7] 。
2002年
1月1日 読売新聞の題字下に記載されていた、「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が廃止。
7月1日 グループ再編。株式会社読売新聞社を株式会社読売新聞グループ本社 (グループ持株会社)と株式会社読売新聞東京本社に、株式会社よみうり を株式会社読売新聞西部本社と株式会社読売巨人軍に会社分割 。中部本社はよみうりから読売新聞東京本社に分割承継(中部支社 に格下げ)。大阪本社(株式会社読売新聞大阪本社)も株式交換 により読売新聞グループ本社の完全子会社に移行。
10月17日 新聞社で唯一、日本オリンピック委員会 のオフィシャルパートナーになる。
2004年
2005年 4月10日 読売横浜ビル完成、移転。
2007年 10月1日 読売新聞グループ本社・日本経済新聞社 ・朝日新聞社 の3社がインターネット 分野による共同事業及び販売事業における業務提携、システム障害と災害時における新聞発行の相互援助協定を締結することを発表。
2008年
3月31日 紙面を大幅刷新。紙面の文字を拡大、14段組みから12段組みの「メガ文字」になる[15] 。1面下段のコラム「編集手帳」が横1列から縦2段に再編され、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が復活する。夕刊題字のスクリーントーンが廃止[注釈 5] 。
8月31日 大阪本社の「泉」のコーナーが終了。新コーナーへ引き継ぐ。
2009年
1月10日 創刊135周年記念企画として連日6回に渡り300の候補地を掲載し、4月中旬に「平成百景 」を定めた。
2月10日 1874年の創刊から現在に至るまでの紙面記事がインターネットで検索できる、日本初のオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスが開始。
2月27日 ウォールストリート・ジャーナル と編集、印刷、販売に関して提携することが発表され、2009年 3月2日からアジア版の主な記事の見出しが日本語で夕刊2面に掲載され始めた[16] 。
3月16日 創刊135周年記念企画としてコラム 「ポケモン といっしょにおぼえよう! ことわざ大百科」を設け、子供の頃から新聞に慣れ親しむことわざ 解説の連載開始。その後「熟語 大辞典」、「慣用句 全集」、「わかる故事成語 」と逐次シリーズ化され、この日以降一面には、「探せ!ポケモン どこかのページにことわざ大百科」のタイトルと共に、ピカチュウ のイラストが掲載されている。
6月1日 島根県 石見地方 の発行が西部本社から大阪本社に変更[注釈 6] し、島根県内では全県で大阪本社版の発売とした。
2010年
3月31日 東京本社(大手町1-7)社屋建て替えを発表。地上30階・地下3階・延べ床面積約7万9800平米 ・高さ180メートルの計画で、2014年まで工事が行われた。当時の大手町社屋は2010年中に解体され、その間の仮社屋は東京都中央区銀座6丁目の日産自動車 旧本社ビルを使用することとなった[17] 。
10月1日 東京本社が千代田区大手町から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルへの仮移転が完了。3年強の暫定期間だが、39年ぶりに銀座の本社が復活した。
2011年
2012年
2013年
2014年
1月6日 東京本社(大手町)新社屋(読売新聞ビル、地上200メートル地上33F地下3F延べ床面積89,650平方メートル)が完成し、中央区銀座の仮社屋(日産自動車旧本社ビル)から移転[18] 。
4月30日 西部本社がこの日をもって大分県 での夕刊の発行を休止。朝夕刊セット地域から統合版地域に格下げとなるのは同県が全国初[注釈 7] 。
11月7日 中学生 ・高校生 を対象としたタブロイド判の週刊新聞『読売中高生新聞 』創刊。
12月1日 「適正報道委員会」を新設[19] 。今後は記事の「訂正」や「おわび」はすべて社会面に集約して掲載し、訂正などの有無をわかりやすくする。誤った理由も簡潔に説明する。地域版の「訂正」などは地域版に掲載する[20] 。
2015年
2017年
2018年
2019年
1月1日 「読売新聞」の購読料を値上げした。朝夕刊のセット版は4,037円から363円引き上げて4,400円に、朝刊のみの統合版は3,093円から307円引き上げ、3,400円に改定。消費税増税時の2度を除き、値上げは1994年1月以来、25年ぶり。[21]
2月1日 YOMIURI ONLINEと読売プレミアムが統合し、定期購読者も追加料金無料のインターネットサイト『読売新聞オンライン 』を新たに開設。
6月 - 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が798.8万部と報告され800万部を下回る。
7月19日 宮崎日日新聞社佐土原センターへ西部本社朝刊(宮崎全域・鹿児島大半)委託印刷。
2020年
2月9日 横浜港着岸の新型コロナウイルス集団感染のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」へ読売新聞350部・ジャパンニューズ250部無料配布実施。(2月21日乗客下船/3月1日全員下船)。
3月1日 読売新聞大阪本社が「緊急時の新聞発行に関する相互協定」を中国新聞社 と締結。
3月25日 読売新聞西部本社が「緊急時の新聞発行相互協定」を宮崎日日新聞社と締結。
4月1日 岩手日日新聞社 の完全子会社「青森高速オフセット」の全株式取得し完全子会社にする。
4月1日 読売新聞と日本製紙 が新聞古紙資源を100%国内で循環させる「クローズド・ループ」システム都内3区で稼働。
4月1日 読売新聞西部本社と宮崎日日新聞社 が締結した「緊急時の新聞発行相互協定」が発効。
10月1日 「青森高速オフセット」を「青森読売プリントメディア 」と改称。
2021年
12月 - 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が699.2万部と報告され700万部を下回る。
2023年
3月25日 - 当日の朝刊紙面で「向こう1年値上げしない」[注釈 8] と社告。同日ウェブサイトも更新[22] 。読売新聞は物価高騰が家計を圧迫する中で、読者に正確な情報を伝え、信頼に応える新聞の使命を全うすべきとし、虚偽の情報や偏った言論が拡散される中で、正確で公正な情報を提供する新聞の役割はより重要であり、読者にこれまで通り新聞を手に取ってもらえるよう、最大限努力するべきだ、と主張している。なお、このあと4月5日、朝日新聞 が値上げを公表している。
2024年
3月23日 - 2023年に引き続き購読料を値上げしないことを2年連続となる形で社告で発表した。
3月 - 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が598.0万部と報告され600万部を下回る。
11月28日 - 株価指数「読売株価指数 (読売333)」を2025年3月に創設することを発表[23] [24] 。
12月1日 - 2025年 1月より朝夕刊セットの購読料を4,400円から4,800円に400円値上げをする他には、朝刊の一部売りは150円から180円に、夕刊の一部売りは50円から70円に、朝刊のみの統合版の地域は3,400円から3,800円へそれぞれ値上げすることを発表。値上げは2019年1月以来、6年ぶり。[25]
題字の遍歴
出典:[26]
創刊当時は縦書きだった。
横書きの題字が初めて登場するのは、創刊1万号を達成した1905年4月8日の朝刊であるが、1万号の特集の単発的なものあった。
本格的に横書きの題字が登場するのは戦後に入ってからで、今日に至っている。なお、1949年11月に当時は読売新聞とは別枠で独自に発行していた夕刊読売 は創刊当初から縦書きだった。また1975年に創刊された中部読売新聞も、創刊された当初は縦書きだったが、すぐ横書きに統一されている。
夕刊に掲載されていた題字のスクリーントーンは、夕刊読売が読売本紙と紙面統合された1951年 9月 から。以下脚注参照[注釈 5] 。
横書きになってから、題字の下には「THE YOMIURI SHIMBUN 」(夕刊はこの後に改行して「EVENING EDITION 」)と表記されていたが、一度2002年 1月 に廃止された。その後2008年 3月31日 付夕刊からは朝刊と同様、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN 」の表記が復活されている。
京橋 の読売新聞社。隣に勧業場。明治末期。武内桂舟 画
子安峻 、本野盛亨 、柴田昌吉 が創業し、子安が初代社長(1874-1889)、本野が2代目社長(1889-1909)を務めた。子安峻(1836-1898)は、大垣藩 士子安宗茂の長男として生まれ、江戸に出て砲術 、蘭学 、舎密 学、英語 などを学んだのち、1868年に外務省 高官となり、傍ら1870年横浜毎日新聞 の創刊に関与し、横浜 で日就社を創立、1873年には、英和辞典『附音挿図英和字彙』を柴田昌吉とともに出版、翌年読売新聞を発刊した[27] 。
なお、三代目社長は高柳豊三郎 (1910-1912)、四代目は本野英吉郎 (1912-1917)、五代目は秋月左都夫 (1917-1919)、六代目は松山忠二郎 (1919-1924)が務めた[28] 。
主筆
高田早苗 (半峰)(1887年8月1日 - 1891年12月31日)
市島謙吉 (春城)(1892年1月1日 - 1894年5月31日)
中井喜太郎 (錦城)(1894年6月1日 - 1901年10月22日)
松平康國 (1901年10月23日 - 1902年2月28日)
石井勇 (白露)(1902年3月1日 - 12月)
足立荒人 (北鴎)(1903年1月1日 - 1906年11月20日)
竹越與三郎 (三叉)(1906年11月20日 - 1907年6月27日)
足立荒人(1907年6月27日 - 1910年3月20日)
笹川潔 (東花)(1910年3月20日 - 1913年12月28日)
五来欣造 (素川)(1914年2月10日 - 1915年8月)
金崎賢 (1915年8月 - 1918年3月30日)
伊達源一郎 (1918年5月1日 - 1919年9月1日)
松山忠二郎 (1919年9月1日 - 1921年)
大庭景秋(柯公) (1921年)
山崎光二郎 (1930年3月 - 1933年1月15日)
高橋雄豺 (1933年11月10日 - 1945年10月24日)
小林光政 (1935年10月24日 - 1946年2月)
岩淵辰雄 (1946年6月14日 - 10月19日)
馬場恒吾 (1946年10月19日 - 1948年9月14日)
安田庄司 (1948年9月14日 - 1949年5月20日)
小林與三次 (1965年8月1日 - 1970年5月30日)
渡邉恒雄 (1985年6月26日 - )[29]
社会部
1953年には「読売新聞社会部」が第1回菊池寛賞 を受賞(原四郎 を中心とする同社会部の暗黒面摘発活動)、1955年には社会部記者の安部光恭 が第3回菊池寛賞 を受賞している。
また、読売新聞は、かつて立松和博 、本田靖春 (東京本社)、黒田清 、大谷昭宏 (大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。
競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れた
ヤクザ の親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売上げを大いに伸ばした。
連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。
田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、
前科 11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ
— 藤原肇『朝日と読売の火ダルマ時代』国際評論社、1997年
読売新聞大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代 に社内で渡邉恒雄 らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年 に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を体した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている[30] 。
現在の論調は、概ね中道右派 ・親米 保守 である[31] 。大衆主義 とも評される[32] 。
2009年 (平成21年)の新聞通信調査会 の調査では、「最も保守的=10点、最も革新的=0点」という分布の中で、読売新聞は5.6点となって産経新聞 の5.3点を上回り、全国紙 の中で最も保守的であるとされた。日本経済新聞 は5.2点、毎日新聞 は5.0点、最も革新的な朝日新聞 は4.4点である[33] 。
大垣藩 士・子安峻 、佐賀藩 士・本野盛亨 、柴田昌吉 らの創業した読売新聞は、「文学新聞」として知られた。分かりやすい新聞、だれでも読める新聞を目指しただけでなく、西郷隆盛戦死の号外を自決した当日に出すなど早くから電信の導入をおこない、1877年 (明治10)、発行部数は2万5千部を突破して、早くも日本最大の発行部数を誇った[34] 。1887年 (明治20)には、立憲改進党 や早稲田大学 創設に携わった高田早苗 が初代主筆 となり、国会や憲法についての解説を記事にしたが、明治中期以降、部数が衰えた読売新聞は、1919年 (大正8)、白虹事件 によって東京朝日を退社した松山忠二郎 たちをむかえ、「大正デモクラシー の梁山泊 」として、プロレタリア文学 などの発表の場となるとともに、政治・経済の硬派記事を加え、部数も3万部から13万部に急伸させた。1923年 (大正12)、関東大震災 の襲来にともない経営不振に陥った読売新聞は、1924年 (大正13)2月26日、警視庁刑事課長・警務部長を歴任し、虎の門事件 で退官していた、まだ38歳の正力松太郎 の手に委ねられる。
正力は、品川主計 、小林吉政などの警察官僚 を積極的に経営・販売に迎え入れ、「警察新聞」化をすすめる一方、アメリカのハースト系新聞社のイエロージャーナリズム にならい、警察ネタとセンセーショナルな記事を結合させる独自の紙面作りを推し進めた。とくに、暗黒街の取材に関しては他紙の追随を許さず、戦後は、原四郎社会部長の下、読売「社会部王国」を築き、「読売の在野精神」とよばれ、「庶民感覚」に根ざしたリベラル な論調を展開した。これは、絶対的な権力をもつ社長・社主の正力松太郎自身、自民党の政治家でありながら、社論に容喙することが少なく、また「販売の鬼」「販売の神様」と呼ばれた後任社長務臺光雄 も、新聞の心臓部である編集に口を差し挟まなかったことが大きい[35] 。
1979年 、渡邉恒雄 の論説委員長就任以降、紙面の編集方針や論調は右派 ・保守主義 となった。現在は基本的に自民党 支持、改憲 支持、日本経団連 支持、新自由主義 経済改革支持である。その一方、「大連立構想 」以降の社説等で見られるように旧民主党 やその支持母体である労働組合 への論調は厳しいものが多かったが、民主党「も」政権に参加する「大連立」には積極的である[36] という側面もある。そのためか、民主党については、方向が違うために批判する場合だけでなく、税制改革[37] のように基本的な方向は民主党主流派と一緒だが程度の違いがあるための批判という場合もある。これに関して言えば、同じ自民党支持でありながらも野党を批判する傾向が多い産経新聞とは一線を画していると言える。その他に、主筆・渡邉恒雄が戦争経験者であるため、特に靖国神社 (特に遊就館 )における歴史認識には批判的で、小泉純一郎 の靖国参拝 には反対していた。
政府の政策に関し、政策分野によっては(憲法改正問題、防衛政策など)、社の見解(社論)を明確に打ち出すのが特徴である(「本社、憲法改正試案を発表」、1994年11月3日)。他方、不得意な政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどであることも特徴である[38] 。同業他社からは「記者というより、ただのサラリーマン」と半ば憐れみを持って評されることも多く、これは記者能力の徹底的な平準化を目指す社員教育に要因を求める見解も存在する。また個々の記事のつくりは他紙に比べて独特で、見出しと内容に齟齬がある場合が散見される。記事については時に、「表現の詰めが甘く、完成度が低い」とも指摘される。
原子力発電 については正力松太郎が原子力委員会 の初代委員長に就任した経緯から一貫して推進を主張しており、社説でエネルギー問題(例:石油価格高騰や再生可能エネルギー 等)を論じた後の結びには、必ずと言っていいほど原子力発電推進の主張で締めくくっているほど原発には固執している[39] [40] [41] 。
また、新聞業界の権益を確保するために、民主主義 の維持 を大義名分として社説で新聞特殊維持を主張したり(2006年2月20日付社説)、新聞への軽減税率 導入をたびたび主張したり(2015年12月20日・2016年2月20日付社説)するなどして、結局それが実施されるなど紙面の政治への影響も大である[42] 。その一方で先の軽減税率や2015年安保法案 の報道に関しては、賛否両論があったにもかかわらず、読売はそれに賛成する記事や意見だけを取り上げ、反対する意見は取り上げることはなかった[43] 。
5大全国紙中で唯一の人生相談 コーナー「人生案内」を紙面に持っている。また教育面は早稲田大学 と提携[44] 。また2008年に読売ウイークリー を販売不振で休刊させて以降、週刊誌 を発行していない唯一の全国紙となった。
読売新聞の読者層について、木村雅文 は大阪商業大学 JGSS(Japanese General Social Surveys、日本版総合的社会調査 )研究センターの調査をもとに、「日経や朝日と比べて高卒(新制)の割合、ブルーカラー の割合、非正社員の割合が多い」としている。これら学歴、職業を反映して読者世帯の平均年収は、毎日と並んで、日経、朝日、産経に次ぐとしている(いずれも木村、2004 )。
全国紙への道
読売新聞社は、戦前に「九州日報 」など日本各地の地方紙 を買収して経営に参画し、全国進出を計画したが、第二次世界大戦 に伴う新聞統制 により、その計画は頓挫した。
1952年(昭和27年)11月25日、大阪府 大阪市 北区 野崎町で「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1964年(昭和39年)9月23日、福岡県 北九州市 小倉北区 砂津中津口(現・明和町1-11)で「読売新聞」の西部版第一号を発刊。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更)の一事業として発足した。
1975年3月25日に、読売新聞の東海3県での発行としての形で、愛知県 ・岐阜県 ・三重県 を対象地域とする『中部読売新聞』(題号:中部讀賣新聞、読み:ちゅうぶよみうりしんぶん)が創刊された。紙面は、東京で製作された紙面を一部共用し、読売本社と中部読売は編集・工務・販売・広告などの部門で互いに協力し合った。創刊号は、一般的な読売新聞の横並びの題字ではなく、中部読売独自による縦並びの題字[45] が使われた。
毎週日曜には週刊 の二部紙 として日曜版 「よみほっと」が一緒に封入されている。以前は「日曜版」→「y&y」という題名だった。また「y&y」の時代は「y&y日曜版」とは別に、週間のテレビ番組表「y&yテレビ」が木曜に連載されていたが、2008年 10月 の号から日曜版と一緒に封入されるようになった[46] 。
1953年 、新宿 暗黒街の暴力追放などのキャンペーン報道により、第1回菊池寛賞 を受賞[47] 。
1954年 、第五福竜丸 の被爆事件の特ダネを報道。一躍、世界に知られるようになる。
連載「物価戦争」による物価引き下げのキャンペーン報道により、1966年度日本新聞協会賞 を受賞[48] 。
1962年 8月28日 、日本国内でサリドマイド児の存在を初めて明らかにした梶井正博士(北海道大学医学部)のデータをスクープした[49] 。それを受けて約半月後(9月13日 )、ようやく大日本製薬 はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切った。レンツ警告 (1961年11月)から遅れること約10か月後のことであった。
1968年 、連載「昭和史の天皇」により、第16回菊池寛賞を受賞[47] 。
1973年 8月8日 に起こった金大中事件 で、韓国 KCIA が介在していたことをスクープし、1974年度日本新聞協会賞を受賞した[48] 。
1977年 、弘前大学教授夫人殺人事件 の再審に関する報道により、第25回菊池寛賞を[47] 、また本事件に関する一連の報道により、1977年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
企画「医療をどうする」により、1978年度日本新聞協会賞を受賞した[48] 。
在韓日本人 妻里帰りキャンペーン報道により、1986年度日本新聞協会賞を受賞した[48] 。
1988年 に発生した大阪府警察 の巡査及び堺南署(現西堺警察署 )署長以下の職員が組織ぐるみで主婦に占有離脱物横領の罪を着せようとした事件では、読売新聞記者がいち早く事件を耳にし、社会面に大きく特集記事を掲載したことから事件が発覚、主婦の冤罪が晴れた。この報道により、1988年度日本新聞協会賞を受賞した[48] 。
1991年 6月3日 の雲仙・普賢岳 噴火の写真報道により、1991年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
企画「PKOぐったり“良識の歩み”」により、1992年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
1994年 の文化の日 、日本のマスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案」を発表し、憲法改正論議 のさきがけとなる。しかし48年前 の同月同日(日本国憲法 公布の当日)に発行した『新憲法読本』で“新憲法をしっかりと身につけ新憲法を一貫して流れる民主主義的精神を自分たちのものとすることによって、われわれははじめて平和国家の国民としてたち直ることができるのである。”、憲法第9条について同書で“新しい時代の平和の典型として日本憲法を見るならば、ある程度の戦力保持の必要を漠然と感じる危惧感は、この憲法によって再生しようとする日本国民のヒューマニズムを踏みにじるものでしかない。それは単なる感傷の域を脱しない小市民的感情であろう”と述べていた事はあまり知られていない(つまり転向 した)[50] 。
日本の医療を取り上げた連載企画「医療ルネサンス」により、1994年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
元日 (1月1日 )の一面トップ記事には、他紙のように連載特集記事ではなくスクープ記事を持ってくる。
1969年 (昭和44年)元日には「三菱銀行 と第一銀行 が合併」を報じた。既に両社の間では合併契約書が調印されており、この時点では正しい報道であったが、この報道を契機に第一銀行側で合併反対派が一大勢力となり、結局同年1月13日に合併が白紙撤回されたため、スクープは幻となった。
1995年 (平成7年)元日の「山梨 のオウム施設 近くでサリン 残留物を検出」では、一連のオウム真理教事件 報道のきっかけを作った。
日本国内で初めて、第三者の女性から卵子の提供を受けた体外受精 をスクープし、1998年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
ユーゴスラビア紛争 ・コソボ紛争 に関する一連の写真報道により、1999年度日本新聞協会賞を受賞[48] 。
2009年12月22日 朝刊で、佐藤栄作 とリチャード・ニクソン による日米核持ち込み問題 を独占スクープした。この報道は2010年度日本新聞協会賞を受賞した[48] 。
2011年 7月21日 付朝刊に東電OL殺人事件 で別人のDNAが見つかったと報道。真犯人はネパール人男性ではない可能性があることをスクープ。2012年度日本新聞協会賞を受賞した。
2022年7月20日 朝刊で、東京五輪の組織委員会理事とAOKIホールディングス などのスポンサー企業の間で不透明な資金移動があり、東京地検特捜部が捜査を進めていると、逮捕の約1か月前にいち早く報道した。2022年度新聞協会賞を受賞した[51] 。
1911年 1月19日、小学校「日本歴史」教師用教科書の南北朝についての「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらず」という記述を「大義名分を誤るもの」として社説 で批判し、いわゆる南北朝正閏論 問題に火を着けた。南北朝正閏論争は、大逆事件 判決直後にとりあげられたため、桂内閣 を弾劾したい人々による「正義の旗」に利用され、2月23日、立憲国民党 は大逆事件とあわせ閣僚 問責決議 案を提出。桂内閣は、決議案否決のため、政府系会派「中央倶楽部 」に大浦兼武 を通じて朝鮮銀行 から1万円もの資金を渡したという。2月27日、南朝 ・北朝 のどちらを正統とするか、勅裁をあおぐことを閣議決定 。結局、南朝正統の勅裁が下り、北朝は「偽朝」に、現在の皇室 の祖先である北朝の天皇は、『大日本史 』の例にならい、「○○院」とすることが定められた。戦前期の南朝を正統とする歴史教育の端緒を作っただけでなく、大逆事件とあわせて、予防策としての教育や社会政策、警察による取締強化を招いた[52] 。
1925年 にラジオ欄の創設、1932年 に「地方版」である「読売江東版」の刊行など、時代を先取りする紙面作りを行う一方、1927年 、ヌード写真 を社会面に掲載し、「読売のエログロ 主義」と呼ばれて批判も受けた[35] 。
1930年代、毎日新聞 ・朝日新聞 などと同様、いわゆる「十五年戦争 」「大本営発表 」に全面的に協力し、大東亜戦争 を煽りたてる報道を行った。ただし当時、同業者からは「新聞記事は創作するのが練達堪能の記者とされ、やがて幹部に出世する大道」[53] 「外電と称して実は編集室の机上でニュース を創り上げる」[54] と見られており、1938年に捏造記事「揚子江上英米軍艦訪問記」で記者が処分されると驚きをもって迎えられた。また、営利主義 的に親ナチ ・ヒトラー 礼賛の紙面作りを行い、1941年の独ソ戦 開始直後から「独軍の電撃的勝利」「赤軍の全面的崩壊」とやったため、年末になると収拾できなくなった。その姿は同時代から「昭和 年代のお笑い草」[54] とされた。
1948年 、昭電疑獄 において、重要人物の召喚を次々と予告して的中させる、連続特大スクープをおこない、「朝起きたら読売を見る、自分の名前が出ていないのを確認して朝日を読む」といわしめるほどの報道をおこなった。このセンセーショナルな紙面作りを可能にしたのは、記者としての訓練をほとんど受けていない、入社3年目の駆け出し記者、24歳の立松和博 である。立松和博の父・懐清は、朴烈事件 の予審判事。そのため立松は、検察幹部に可愛がられ、「木内曽益 最高検 次長検事―馬場義続 ・東京高等検察庁 次席検事 ―河井信太郎 ・東京地方検察庁 主任検事」のラインに結びつくことに成功した。当時、GHQ 内は、日本の占領統治 をめぐって、右のチャールズ・ウィロビー 少将と左のチャールズ・L・ケーディス が対立・分裂しており、ウィロビー少将は自由党の吉田茂 を支持していた。「木内-馬場-河井」の検察ラインは、芦田均内閣 を潰そうとするGHQの政治的思惑にそって、昭電疑獄をでっちあげて、検察が政治を支配する時代をつくりあげたのである。河井信太郎は、馬場の黙認の下、捜査情報を読売新聞にリークし続けた。検察は、読売新聞一社のみにスクープを独占・継続させることを通して、強烈なインパクトを各界にあたえ、芦田連立政権を崩壊させることに成功した。ただ、立松は、読売の連続スクープに息巻く他社の記者たちから、河井がネタ元であることを悟らせないようにするため、細心の注意を払わざるをえず、睡眠不足と疲労からヒロポン を打つほど心身がボロボロになり、ほどなくして休職に追いこまれることになる。1957年の売春防止法 の読売新聞における大誤報事件は、取材体制の出遅れにあせった景山与志雄 社会部長が、昭電疑獄時のエース記者、立松を病欠から呼びもどしたことからはじまった、という。なお、司法記者クラブ が検事の家に夜討ち朝駆けをして「ネタ」を物乞いする習慣は、昭電疑獄から始まり、造船疑獄 で定着、ロッキード事件 やダグラス・グラマン事件 、リクルート事件 では、検察関係者による報道機関に対するリーク、すなわち検察リーク が猛威を振るうことになる。検事たちが思いあがり、報道機関が検察批判をすると、ただちに「出入り禁止」にする慣行は、三田和夫 によれば、読売新聞による昭電疑獄・造船疑獄報道が原因、と、読売新聞の行為を厳しく断罪している[55] 。
1950年 6月1日に電波三法 が施行されたのに伴い、米国 の資金と技術によって放送 ・通信 分野の国内基幹網を建設し、公共団体 や保安隊 へ貸与する構想が浮上した事で騒動が起きた。1952年 9月4日の読売新聞には、正力松太郎 が中心的役割を担うマイクロ波中継構想が公表された。構想は二転三転したが、最終的に1954年 暮れの参議院通信委員会決議により決着した。
1954年 3月、第五福竜丸 の被曝 以降、読売新聞は、社主にして自民党 議員、正力松太郎 の政治力拡大と原発利権掌握の思惑から、CIA との協力をえて、原子力 平和利用を奨める『日本の原子力発電所 建設』のため、積極的なキャンペーン記事を行った。ただ、日本の再軍備 のため、独自に核兵器 の開発能力を期待して、原発を推進した正力とCIAの思惑は一致せず、CIAが協力するにとどまったことが、有馬哲夫 『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』により明らかにされている。
1957年 10月18日、朝刊社会面トップ記事は、前年に成立した売春防止法 をめぐって、反対運動を行っていた赤線 (公認売春)組織から宇都宮徳馬 ・福田篤泰両代議士が収賄していた、というものであった。これは法務省 刑事課長・河井信太郎のリークであったが、読売に情報を漏らす法務省関係者をあぶりだすため、検察が法務省に仕掛けたガセネタであった。読売新聞は、ただちに両代議士から事実無根と告訴され、執筆者の立松和博記者も逮捕された。当時、後に検事総長 になる伊藤栄樹 たち東京地検特捜部 の検事たちは、前任の事務次官・岸本義広 によって法務研修所 の教官にとばされた河井信太郎 が、馬場義続 ・法務事務次官によって法務省の刑事課長に呼びもどされ、やがては特捜部長に返り咲くのではないか、と憂えていた。とても法律家とは思えない、 造船疑獄 における河井の強引な捜査手法に危惧の念を抱いたからにほかならない。岸本東京高検検事長の検事総長就任をめぐって、検察庁内の岸本派と馬場派の感情的対立は頂点に達した。岸本派の集う東京高検は、馬場たち赤レンガ派 の昭電疑獄以来の読売新聞への河井のリーク疑惑を確認するため、あえて法務省にガセネタをあげたのである。河井信太郎は、法務省にあげられた容疑濃厚な5名の代議士の内、宇都宮徳馬 と福田篤泰 のみ、イニシャルではなく実名での報道を立松に認めた。これは、当時もっとも汚い汚職とされた売春疑獄 において、選挙に強くない東京2区の宇都宮、東京7区の福田を読売に名指しさせることで落選させて、大物新人として当時総選挙に出馬予定であった、藤山愛一郎 外務大臣(東京2区)と、後の参議院議長安井謙 の実兄、安井誠一郎 東京都知事(東京7区)の当選を確実にし、 岸内閣 のために便宜をはかることが狙いだった、とみられている。小島編集局長は、ニュースソースである河井信太郎を隠匿するため「検察庁筋」と答えたとものの、検事総長は両氏の容疑と情報漏れを完全否定。衆議院法務委員会の証人喚問の動きに対して、原四郎は他紙への根回しのうえ、誤報にもかかわらず、全紙をあげて東京高検攻撃に出た。結局、正力松太郎の調停もあって、12月18日、謝罪広告を出し、立松記者は懲戒休職処分となった。読売「社会部王国」終わりの始まり、とされるスキャンダルであった。
1960年代、読売新聞は、朝鮮民主主義人民共和国 を礼賛し、在日朝鮮人 の北朝鮮帰還事業を積極的に推し進めた。1960年1月9日、読売新聞は、ピョンヤン発の特派員電で、「北朝鮮へ帰った日本人妻たち」「夢のような正月 」という記事を掲載し、金日成 首相に招かれて新年の宴会に出席してることや、正月用にお餅やおせち料理が特配される豊かな生活ぶりを伝え、日本人妻をふくめた在日朝鮮人の帰国熱をあおりたてた。そして、「夫の祖国に帰った日本人妻 たちはみんな喜びと幸福にひたっています。新潟を出港するまでの不安や心配は、国あげての大歓迎にすっかり消しとんでしまったようです」「日本で貧困と、ときには屈辱の生活をおくっていた妻たちには夢のようなお正月。まだ日本で帰国をためらっている同じ境遇の人たちに『早く来るように伝えてほしい』と口をそろって語っている」「記者が見たすべての日本人妻が、朝鮮にきてほっと解放されたかのような安らぎをみせ」「みんなが希望にあふれて前方を見つめている」とのべ、多くの日本人の犠牲者をつくりだす原動力となった。読売新聞や産経新聞 が在日朝鮮人とその日本人妻の北朝鮮帰国事業を煽りながら、社民党や朝日新聞を攻撃するだけで、自らの過去の言論をまったく反省しない姿に対しては、「目糞鼻糞を笑う」とまで厳しく批判されている[57] 。
1966年12月24日、朝刊一面トップで「総選挙にかける」という特集記事が組まれ、「黒い霧 の審判 歓迎されぬ首相の応援」「史上最低の不人気内閣」「(支持率)二五パーセントの不人気首相」と、渡辺恒雄 記者による佐藤内閣への批判キャンペーンがおこなわれる。1961年以降、旧大蔵省 関東財務局 ・国有財産局 であった「国有地 の払い下げ」問題がこじれたためであった。跡地は日比谷通りに面した一等地のため、100社以上の応募が殺到。読売新聞は、49番目の応募だったが、「角さん、俺のとこに社屋の土地をよこせよ」(渡辺恒雄の田中角栄 への直談判の時の発言)と、熾烈な政界工作を展開。1963年、読売への払い下げが決定された。ところが水野成夫 産経新聞 社長の巻き返しで、1966年夏、払い下げは白紙撤回。そのため1966年12月22日、業を煮やした務台光雄 副社長は、読売新聞本社部長会の席上、「大手町の国有地を払い下げるとはっきり約束した。この約束が反故になったら日本の政治はもうおしまいだ。道義は地に墜ちてしまう。そうなったら内閣と一戦交えるしかない」と発言。12月24日朝刊記事は、国有地を読売にわたさない佐藤内閣へ、解散総選挙を利用した圧力であった。1966年12月27日、「黒い霧解散 」で衆議院 が解散される。12月29日、務台光雄と佐藤栄作は、首相官邸で会談をおこなう。読売新聞は、460万部の部数をバックにして、大手町の国有地を手に入れることに成功した。[38]
1974年 から1975年 にかけて、読売新聞は名人 戦騒動をおこした。1961年から始まった旧・名人戦は、高度成長期に14年間も、2500万円前後に契約金が据えおかれた。そこで日本棋院は、1億円の契約金を提示した朝日新聞 に名人戦主催権を移すことを表明。あわてた読売新聞は、「金目当て」「信義がない」と激しいバッシングをほぼ1年にわたって囲碁界全体に加え、裁判にまで発展した。1975年末、「最高棋士決定・棋聖戦 」創設(1976年から開始)という形で落ち着いたものの、日本棋院 のプロの卵である院生の数は激減。日本囲碁界の凋落と中国・韓国の台頭の一因となった[58] 。
1978年 、ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院 、法政大学 出身(のち阪神タイガース ・読売ジャイアンツ 、解説者)の投手江川卓 が入団契約を結んだ事件、いわゆる空白の一日 。これは栃木 選出の代議士である船田中 議員らが関与したとも言われ、その経緯は「実録たかされ」(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志 )などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種のタブー扱いになっていた。しかし、2005年 の日本テレビ のスポーツ番組においてこの事件が取り上げられるなど、近年では内部での扱いが変化しつつある。
1986年 12月5日夕刊では、「よみうり寸評」差し替え事件がおきた。「よみうり寸評」では、中曽根 政権の売上税 導入の決定に対して、「朝三暮四のもう一つの意味、詐術を用いて人を愚弄する点も、今回は当てはまる。(略)中曽根首相は七月の同日選のとき、『大型間接税 は導入しない』と選挙民に約束した」と批判。渡邉恒雄主筆 (1985年 6月就任)の展開した「売上税は中型間接税だから公約違反ではない」という売上税導入キャンペーンにそぐわぬためで、夕刊3版から急遽差し替えられた。「よみうり寸評」で1981年 の日本記者クラブ賞を受賞した村尾清一 記者は、1987年 6月、出版局顧問に退いた[38] 。
1987年 11月29日、大韓航空機爆破事件 では、「大韓航空機の墜落確認 タイ 奥地」(11月30日夕刊)と報道した。墜落したのは、ベンガル湾 上空であった。またこの事件では、11月30日、日本人に背乗り した偽造日本国旅券 を使った人物が、中東 のバーレーン で逮捕されそうになり服毒自殺をした。12月2日付夕刊で読売新聞は「墜落大韓機自殺の男 宮本と同一人物か」と、自殺した男性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺男性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった[59] 。
1989年 8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事ではアジトの様子が語られており、アジト付近の地図まで載っていたが捜査本部は全面否定し、全くの虚偽であることが判明。翌日には「おわび」を出したものの、「検証」記事に2ヶ月もかかり、その内容も具体性に欠けるものであった。この虚偽報道事件は、珊瑚損傷記事捏造 (『朝日新聞 』同年4月20日夕刊)やグリコ・森永事件の犯人取り調べ捏造 (『毎日新聞 』同年6月1日朝刊)とならぶ一大スキャンダルであったが、朝日新聞のサンゴ事件の影に隠れてほとんど話題にされず、読売新聞は処分の内容も、記事を書いた記者の名前も明らかにしなかった。
1990年 5月6日、子供の日翌日の朝刊社会面トップは、「雨の日の5日午前2時幼い2人置き去り 歩道とぼとぼ 保護 親の名言わず」と、「豊かな時代」の「子捨て」を報道し、「親の身勝手から依然として後を絶たない」と批判した。しかし実際は、父に黙って深夜に外出して保護されただけであり、記者の早とちりであった。ところが、訂正・お詫び記事を出さなかったどころか、「同署では"兄妹は大人たちに囲まれ、緊張感と警戒心で自宅がすぐ近くにあることさえ口に出せなかったのだろう"と同情している」(5月7日夕刊)と書き、読売新聞は誤報の責任を子供になすりつけた。
1994年 3月25日、朝刊一面に「『グリコ・森永』に有力容疑者 大阪の男、一部供述」という見出しがおどった。内容は、「グループ8人か」「捜査本部一斉聴取へ」「江崎勝久 ・グリコ 社長誘拐に始まった一連の事件について関与を示唆するような供述」「末端の実行犯の可能性」「『しゃべれば、殺される』などと供述」「当時の行動を再現させるなど、確認作業を始めた」「時効まで残すところ二ヶ月余りという局面で最大のヤマバをむかえる」というもの。しかしその後進展はなく誤報であることが分かった。読売新聞は6月2日朝刊一面の「グリコ・森永事件 『アベック襲撃』も時効」と伝えたことを受けての社会面記事、「悔しい時効」の一節にあわせて掲載した「大阪社会部『グリコ・森永事件』取材班」の署名入り記事「性急だった本紙報道」の中で「情報の検証に甘さがあったことは否めない」と釈明した[59] 。
松本サリン事件 において、6月28日付でマスメディアが報じた「薬剤の調合をまちがえた」「農薬混合」とされた「毒ガス の正体」が、7月3日になって農薬ではなく調合では精製できない化学兵器 の『サリン 』と判明したものの、1994年7月15日夕刊では「薬剤使用をほのめかす 事件直後に会社員」と、会社員・河野義行 を犯人視させる報道をおこなっている。なお読売新聞は1995年 5月12日になってから河野に対し紙面で謝罪をおこなった。
1995年3月28日、地下鉄サリン事件 の報道が過熱する中で、朝刊一面にトップに「入院の男 容疑者と断定」「小伝馬町駅 サリン 車内に置く」「目撃情報で突き止める」「回復次第 取り調べ」と題した記事を掲載した。内容は、営団地下鉄 日比谷線 の電車の3両目車内に、サリン発生源である新聞包をおいたコート姿のサングラスの男は、サリンを浴びて入院している男と同一人物であることが、目撃情報によって突き止められた、というものである。しかし同日夕刊の続報では、社会面で「犯行とは無関係」と、朝刊特ダネを完全に否定した。容疑者と断定した人物についての謝罪・顛末説明は行われていない。
2001年 から2002年 にかけて、読売新聞は田中眞紀子 外相 更迭の旗振り役をになう。2001年6月2日付社説では、「機密費 問題などに見られる外務官僚の閉鎖的体質を改めるのは大事なことだ。だが、いたずらに省内に混乱を生じ、外交を弱めるようでは本末転倒」と、田中外相の外交感覚を危惧。8月3日、4日付社説では、事務次官 人事の混乱に基づき、田中外相の更迭を要求した。これは、「9・11 」以後噴出する田中外相批判の先鞭となり、2002年1月29日の外相更迭につながっている。しかし2002年2月以降、機密費横領・水増し詐偽・組織的裏金作り・私的流用・「鈴木宗男 疑惑」などが噴出すると、一転して「『政と官』の不明朗な関係が批判されているにもかかわらず、外務省幹部の意識が一向に改まっていない」(2002年2月24日付社説)と批判した。
2002年4月、個人情報保護法 案と人権擁護法案 の国会審議入りに際して、日本新聞協会(会長・渡邉恒雄)は、表現・報道の自由を侵すとして廃案・出直しをもとめ、緊急声明まで出して反対姿勢を示していた。しかし読売新聞は、個人情報保護法については、メディアを含めて守らなければならない基本原則のうち「透明性の確保」を報道分野だけ除外する、などを柱とした「「報道の自由」と両立を/修正試案を本社提言」を5月12日付1面で掲載した。5月13日、小泉 首相は、読売試案を参考にして修正協議に入るように山崎 幹事長 に指示。事前了解済みを疑わせる怪しい動きに、ほとんどのメディアがこの読売試案に反発。「特定の大新聞がよければ「青信号」を出せるような法案ではない」(『北海道新聞 』)「読売案は<歴史の汚点>」(月刊『文藝春秋 』)と強い批判を浴びた。
2002年9月18日、小泉訪朝による日朝首脳会談 では、政治部長署名記事で、「北朝鮮 が軍事独裁国家 である限り、経済協力などできるものではない」と啖呵をきった。しかし、1962年 から1965年 、朴正煕 政権との日韓国交回復 交渉において、金鍾泌 と日韓国交回復に反対していた党人派大野伴睦 を引き合わせるなどして、軍事独裁国家 に対する経済協力を実現させた黒子役は、読売新聞の渡邉恒雄記者(当時)であった[38] 。
2003年 3月、米英によるイラク戦争 の開始にあたって、「湾岸戦争 から十二年後の今もなお、大量破壊兵器の廃棄義務を履行していない」(3月9日社説)「大量破壊兵器 を廃棄した、というフセイン 政権の主張は、まだ立証されていない」(3月14日社説)「問題の本質は、イラク の大量破壊兵器がテロリスト の手に渡る危険性をどう排除するか、である」(3月19日)など、イラク攻撃に賛成する論陣を張った。しかし2004年の米政府調査団による最終報告にて、大量破壊兵器がイラクに存在しなかったことが結論付けられた[60] 。
2004年 4月8日に起こったイラク日本人人質事件 報道において読売新聞は、「三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なもの」(4月9日)「三人にもこうした事態を招いた責任がある」(4月10日)「人質の家族の言動にもいささか疑問がある…政府や関係機関などに大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である」(4月13日)等、人質とその家族を批判する「自己責任 論」の火付け役となる。また4月19日付社会面では、本人の日本帰国費用のほか、政府自治体関係者の活動費まで細かく算定して「自己負担論」を唱えた。だが読売新聞は、自衛隊イラク派遣 でサマーワ から記者を撤退させた際、「現地の治安が悪化し、外務省から航空自衛隊 の輸送機で撤退を求められたため、利用」(4月15日)した事実を公表したが、帰国費用や政府自治体関係者の活動費を「自己負担」したかどうか、未だ明らかにしていない。
2004年5月26日、「アル・カーイダ 幹部新潟潜伏」の見出しで記事を掲載。新潟で会社を経営しているバングラデシュ 国籍の男性が、国際テロ組織アルカーイダと関連があるかのように報道した。警察の捜査の結果、男性はアルカーイダ とは無関係と判明。男性は名誉を傷つけられたとして読売新聞東京本社に330万円の損害賠償を求めた。読売新聞側は「記事は警察当局の見方や方針を報じたもの」などと主張したが、1審、2審では読売新聞側の裏付け取材が不十分なうえ、記事の見出しは原告がアル・カーイダ 幹部であると読者に誤解させるものと判断、原告の名誉棄損を認めた。2008年11月25日、最高裁は読売側の上告を棄却したため読売新聞に220万円の支払いを命じた2審判決が確定した。
2005年 、デンマーク の新聞「ユランス・ポステン 」が、預言者ムハンマド に関する風刺画12枚を掲載、イスラム教徒 の反発と抗議行動を招いた。ヨーロッパの新聞が、風刺画を転載するなど、「表現の自由 」を訴える中で、2006年 2月11日、読売新聞は、社説「風刺漫画騒動 『表現の自由』には責任が伴う」の中で、「風刺漫画 という表現方法で、権力者や社会事象などを皮肉るのも、報道の範疇だろう。だが、それによって、敬虔な信仰心を傷つける権利までは表現の自由にはない」とし、これ以上信教の自由 を侵してはならないという論陣をはって、どのような風刺画だったのかを一切明らかにしなかった。一見、「信教の自由」を重視したようにみえるが、実は、イスラム教徒の暴力やテロ を極度に恐れた日本新聞協会 や日本雑誌協会 による、風刺画を転載しない申し合わせ に従っただけにすぎないことが明らかにされており、暴力への弱腰が厳しく批判された[61] 。
2007年 2月16日、アサヒビール がサッポロホールディングス に経営統合を提案したとの報道がなされたが、両社ともにそのような事実は無いとして否定した[62] [63] 。
2007年 6月2日、朝刊の連載小説「声をたずねて、君に」の同年5月28日掲載分について、挿絵が雑誌に掲載された写真を無断使用して描かれていたことが判明。即座に挿絵の掲載を中止し、他にも無断利用がないか調査した結果、7月2日には新たに35点に著作権侵害の疑いがあることが判明した。挿絵を担当したのはイラストレーターの中島恵可 であり、写真の無断使用を認めている。使われた写真は高知新聞 に掲載された32点と読売新聞に掲載された3点。高知新聞の掲載写真のうち、13点は共同通信 、5点は時事通信 、2点は主婦と生活社 の配信であり、読売新聞社は各社に謝罪した[64] 。
2007年11月、自民党 と民主党 の間で大連立 内閣を組む構想が持ち上がったが、読売新聞主筆の渡邉恒雄が仲介役として関与していたことが読売新聞以外の各紙報道により伝えられた。読売新聞自体も大連立を推進する報道を行い、構想頓挫について民主党を批判する報道を行った。
2008年 1月27日、石川県 版に掲載されたある大学教員の学位を巡る記事に対して、大学から「取材を受けていないのにコメントが掲載されている」という抗議があり調べたところ、金沢支局の記者が大学側に取材を行わず他紙の報道や大学、文部科学省の公表資料などを参考にして記事を執筆し、コメントも「土曜日 で電話がつながらなかったから」という理由で捏造していたことが発覚。記者は休職1カ月の懲戒処分となった[65] 。
2008年7月28日、青森県 版に掲載された全日本吹奏楽コンクール 青森県大会関連の記事で、掲載された八戸市 代表楽団長の談話は“岩手県中部の地震被災地関連の記事が必要だ”と考えた青森支局の記者が、楽団名を検索エンジン で調べて執筆した捏造記事だった(コメントした団長は先任者で楽団とは既に無関係)[66] 。元団長本人からの指摘で発覚。談話部分は取り消され、執筆記者は休職3ヶ月、伊藤学支局長は譴責の懲戒処分となった。取消・謝罪は「青森版」のみに掲載された。なお、謝罪会見は行われず、執筆者も明らかにされていない。
2009年 5月22日、20日付朝刊のスポーツ面に掲載された記事が中国新聞 からの盗用であることが発覚。読売新聞大阪本社の運動部記者が容疑を認めたため、中国新聞社に謝罪した[67] 。後日、その他の盗用の有無を調査した結果、同じ記者が執筆した4月16日付朝刊のスポーツ面においても、中国新聞の2008年9月11日付のスポーツ面の記事と酷似した表現が数カ所発見され[68] 、最終的に8本の記事で盗用が確認された[69] 。
2009年7月23日付け世論調査 記事『「比例は民主」42%、優勢維持…読売世論調査』で、麻生太郎 と鳩山由紀夫 のうち総理大臣にふさわしいのはどちらかを比較するグラフを掲載したが、菅原琢・東京大学特任准教授(先端科学技術研究センター、博士(法学) )は作為的に(基準軸を操作して)麻生の横ばい評に対し鳩山は大きく下落しているように表現したとし、「メディアの信頼性を毀損するもの」と批判している[70] 。
2011年3月11日、東日本大震災 による福島第一原子力発電所事故 の被災に対して、原発推進派で多額の広告料を東京電力 からもらっていた読売新聞は、放射能 被害を少なく見せかける虚偽の報道を繰り返した。2011年3月16日には、「『黒い雨』『うがい薬飲め』のデマ」と題して、「放射性物質が雨に溶け込んで降ってくるというのは考えにくい」という原子力安全技術センター のコメントをのせるなど、放射性物質を含んだ雨水によるホットスポットによる被曝を否定をつづけた。ところが、2011年10月22日、千葉県 柏市 の私有地では、毎時57.5マイクロシーベルトの高い放射線量 が検出され[71] 、10月23日、文科省は「原発事故が原因の雨水」とみとめることとなる[72] 。
2011年 5月20日 の朝刊一面トップで、「東電 社長に築舘氏」との見出しで、同社の清水正孝 社長が退任し、常任監査役 の築舘勝利が社長に就任すると報じたが[73] 、実際は西沢俊夫 常務取締役 が社長に就任した[74] 。この誤報については、「『ああ、新聞ももう絶望的だな』と思った」「社長にならない人を社長になるって書いちゃった。それもマヌケだけど、この期に及んで社長人事が1面トップ、特ダネだと思っているような人たちが新聞を作っている。それが何よりもマヌケなんです」(烏賀陽弘道)「ワカメや昆布からヨウ素131が10万ベクレル以上検出されたというほうが世界的大ニュースですからね。しかも食べているのは日本人なんです。でも新聞はそれをやらない。感覚がズレている」(上杉隆)「いや狂っていると言ったほうがいい」(烏賀陽弘道)などと、批判を浴びている[75] 。
2011年9月2日 の野田内閣 発足の際、同日付けの朝刊の1面トップで「財務・岡田氏」と乗せ、岡田克也 が財務大臣に内定したと報じたが[76] 、実際には岡田は入閣せず、誤報となった[77] 。
2012年3月15日付『朝日新聞』の朝刊一面トップは、読売巨人軍 が新人選手へ1億円をこえる契約金を裏金で支出していた、とする報道であった。読売新聞は、同日、朝日新聞の報道にあわせて、ただちに反論記事を掲載。新人選手への1億円以上の契約金の支出禁止は、2007年1月までは、目安に過ぎなかったとした。だが、この反論記事は、「04年に横浜 や西武 が1億円を超えて払っていたことが大きなニュースになって、コミッショナー に厳重注意を受けて、西武なんか上層部が責任をとった」「あれは何なの? 野間口 も同じ04年ですよ。その時になんで巨人さん、バックアップしてくれなかったのよ。『ルールじゃないんだよ』と。そう思うじゃないですか」(小倉智昭 )という反発をうけただけではない。報道各社に「朝日がこんな取材をしているが」と反論文書を配る、読売新聞の「報道のモラル」に反した振る舞いも厳しく批判された。とりわけ、読売新聞の反論の中で失笑を買ったのは、「いま球団が一丸となって東日本大震災を支援しようとする時に、10年も前のことを持ち出すのはいかがなものか」と、東日本大震災 の復興への支援をダシにして、朝日新聞を批判し、裏金報道を封じこめようとする態度であった[78] 。
2012年 (平成 24年)10月11日 付の朝刊 一面トップ記事にて『iPS心筋移植 - 初の臨床応用』の見出しを付けた記事を一面と三面に掲載。ハーバード大学 客員講師・東京大学 客員研究員の森口尚史 が、iPS細胞 を利用して心筋細胞 を作成し、特殊な注射器 で心臓 の30箇所に注入し手術 が成功した、という記事を書いた。しかし2日後の10月13日 の一面記事にて『iPS移植は虚偽 』と見出しを出し「おわび 」を掲載。10月11日朝刊と夕刊 ・一部地域の12日朝刊の関連記事に誤りがあったとして、お詫び文を掲載し誤報 を認め、検証記事を10月13日朝刊8面に掲載し、事実上の虚報 を認めた。
2013年 (平成25年)5月19日 付朝刊1面および8面にて、東京電力 が柏崎刈羽原子力発電所 1号機と7号機の運転再開を原子力規制委員会 に申請する方針を固めたと報道。YOMIURI ONLINE にも同内容の記事を掲載した[79] 。これに対し東京電力は、そのような事実は無いとして、読売の報道内容を否定した[80] 。
2017年 に福島県楢葉町長の発言談話を捏造したと報道された。楢葉町長が「避難先から帰還しない職員は昇格・昇給させないようにする」と発言したという内容だったが、実際は締め切りが迫った記者が取材せずに文面を捏造した。読売新聞は当該記者を懲戒処分にするとお詫びした[81] 。
2018年 (平成30年)1月11日 付にて、着物販売レンタル会社「はれのひ 」の店舗が突如閉鎖され、多くの新成人が成人式 で振袖 を着られなかった問題で、横浜市 が被害者を対象にやり直しの成人式を開催することを検討していると報道[82] 。しかし、横浜市教育委員会 は信用調査会社 「データ・マックス 」の取材に対し、「そのような事実はない」と否定し、「現状では被害の把握に努めている段階。市として何をできるか、何かするかどうかも含めて未定」と明言した[83] 。
2019年 (令和元年)10月25日 付朝刊富山版にて、富山県 内の自治体のソーシャル・ネットワーキング・サービス に関するコメントを掲載。直後に自治体のコメントは、記者が捏造したものと判明し、同月29日付け富山版にて記事に関するおわびが掲載された[84] 。
2021年6月15日、韓国の文在寅大統領が7月23日開幕の東京五輪に合わせて来日する方向で日韓両政府が調整していると報道するも[85] 、加藤官房長官は同日、そのような事実はないと否定した[86] 。
2021年11月5日、政府が18歳以下の子どもや若者に現金10万円を一律支給する方針を固めたと報道するも[87] 、7日、高市早苗 自民党政調会長はこれは誤報であるとし、自民党議員の事務所に抗議が殺到していると明かした[88] 。
2022年11月1日、島津製作所 が、防衛関連事業から撤退する方針を固めたと報道したが[89] 、島津製作所は同日、当社の方針は従来通りで、事業撤退などについて決定している事はないとの見解を発表した[90] 。
2022年11月21日、バーチャルYouTuber や中央大学 教授などへの取材を元に「仮想空間『メタバース 』でセクハラ 横行…臨場感あり『とにかく気持ち悪い』」という記事を読売オンラインや読売新聞夕刊に掲載したが、「メタバースのイメージを不当に悪化させかねない」と取材先からの抗議を受け、同月22日までに記事が取り下げられた[91] 。
2024年1月6日、令和6年能登半島地震 に関連し「地震被災者の避難所となっている県立穴水高校で自動販売機が壊され、中から飲料と金銭が盗まれていた」とする目撃者の証言を報じた[92] が、その後、北國新聞 は「自分も避難者で、飲み物を確保するために自販機を壊し」「石川県警は事件性はないとの見方を示している」と伝えた[93] 。
2024年4月6日、紅麹サプリ事件 で、小林製薬の取引先企業の社長の談話として、発言していないことを知りながら、大阪本社社会部主任が「突然『危険性がある』と言われて驚いた」「補償について小林製薬から明確な連絡はなく、早く説明してほしい」と捏造して報道した。社会部主任は「岡山支局から届いた原稿のトーンが、(小林製薬への憤りという)自分がイメージしていたものと違った」と説明し、取材・執筆した岡山支局の記者は「社会部が求めるトーンに合わせたいと思った」と記事の修正を求めることはしなかった。17日に発表し、同日夕刊で、読売新聞は関係者と読者の皆様に謝罪するとともに、捏造に関わった関係者を厳正に処分する方針を示した[94] [95] 。5月1日、大阪本社は、社会部主任を諭旨退職とするほか、取材した岡山支局の記者を記者職から職種転換し、休職1カ月の懲戒処分とすると明らかにした[96] 。また、記事掲載後にこの社長から抗議を受けたにもかかわらず、編集局幹部らは捏造と明確に認識せず、十分な社内検討を経ないまま、4月8日付夕刊に「確認が不十分でした」とする事実と異なる訂正記事を掲載したとして、二河伊知郎執行役員編集局長を給与の3カ月30%返上、編集局総務と社会部長をそれぞれ休職2カ月の処分とし、3人を近く更迭する[97] 。柴田岳代表取締役社長も報酬の3カ月10%を返上。談話捏造と訂正記事に関わった社会部次長、捏造に関わった岡山支局の別の記者をそれぞれ休職1カ月、岡山支局長をけん責、地方部長を厳重注意とする[96] [97] 。
1969年12月14日、全日本空輸 の旅客機と、読売新聞社のレシプロ機が空中衝突した。衝突後も双方の機体は飛行可能であったため、死傷者は出なかった。
1975年 3月25日、創刊当時の『中部読売新聞』の月極め購読料が500円(1部売り20円)と、他の新聞より安く設定されていたため、公正取引委員会 は「不当廉売の疑いあり」として緊急停止命令を東京高等裁判所 に申し立てた。同年4月30日に東京高裁は、公正取引委員会の審決があるまで、月極め812円を下回る価格での販売を禁止する判決を下した。
1981年 9月、読売新聞拡販団 長がピストル 密輸 事件で逮捕される事件が起こった。1981年9月2日付『朝日新聞 』によれば、広域暴力団 の住吉連合 がアメリカからピストルを密輸した事件の第二次摘発が行われ、逮捕者は合計で二八名、押収したピストルは四三丁におよんだ。担当の警視庁捜査四課は、密輸されたピストルの総数を「百丁は越す」としていた。読売新聞の「城西地区」(杉並、中野、渋谷)を担当エリアとする拡張販売団である、武蔵野総合企画社長矢野公久も、「銃刀法・火薬取締法違反」で逮捕された。矢野公久は、池田会宮崎組のナンバー・ツーで、「自動式拳銃 四丁と実弾二百発」を所持していたという。警視庁は、一応、矢野公久の身元を発表したのだが、警視庁詰め記者クラブ の談合 でほとんど報道されなかったため、「なぜ新聞に一行も出ないのか/読売新聞拡販団長が/ピストル二〇〇丁密輸事件で逮捕」(『週刊文春 』1981年9月10日号)などと厳しい批判をあびた[98] 。
1990年 12月4日 、東京都調布市 の読売新聞販売店で新聞奨学生の過労死事件が発生した。裁判の結果、1999年 7月27日 に読売新聞社 と遺族との間に和解が成立した。
2004年11月5日、渡邉恒雄の名義とされる日本テレビ放送網 株が讀賣新聞社の実質所有する株式であることを公表し有価証券報告書 を訂正。これを受けて地方のテレビ局24社とラジオ局18社の株式を役員などの第三者の名義で実質保有していることも公表した。その結果、テレビ9社とラジオ3社に対する出資比率がマスメディアの集中排除 の原則における制限を越えていた事実が明らかになった。その後、第三者名義にして制限を逃れる行為が他の全国紙や地方紙でも行われていたことが発覚した[ 要出典 ] 。
2005年 5月4日から5日早朝にかけてのJR福知山線脱線事故 記者会見の席上、JR西日本 の事故直後の対応やレクリエーションを中止しなかったことについて、出席した記者が説明を求めて「あんたらはもういい、社長を呼んで」等と罵声を浴びせたり、感情的発言を繰り返していたことが判明。取材モラルに欠けていないかと読者や他のマスコミなどから批判され、特に産経新聞 は『主張』(社説 )で批判文を掲載した。後に、大阪本社社会部長名で社会面に謝罪文が掲載された一方、当の記者が報じられたことのうちの一部を否定している[ 要出典 ] 。
2006年 、週刊新潮 2月16日号の報道において、社主・正力松太郎 が中央情報局 (CIA)に買収されその意向に従って行動していたことが明らかにされた。これは有馬哲夫 ・早稲田大学 教授 が、アメリカ国立公文書記録管理局 によって公開された外交機密文書 を調査した結果判明したもので、大きな反響を呼んだ。「Yomiuri newspaper, Japan.」は「POBULK」というコードネームで表されている[99] [100] [101] [102] 。
2007年9月12日付のJ-CAST ニュースにて、朝日新聞社(asahi-np.co.jp)からウィキペディア日本語版 の記事項目が大量に修正されていた事実が報道されたが、読売新聞社からは朝日より多い850件余りの修正 が行われていたことも同時に発覚した(自社項目に対する編集の例 )。読売はWikiScanner 日本語版において、プログラム開発者の「お勧め」として挙げられている[103] 。
2012年 1月18日 の奈良県 版で、殺人罪などが問われている警察官発砲事件の裁判員裁判 (奈良地方裁判所 )をめぐり、裁判員に選任された女性のコメントを掲載した[104] 。裁判員法 102条により、選任された裁判員への接触が禁じられているため、読売新聞の記事は裁判員法に抵触する可能性がある[105] 。奈良地方裁判所の上田昭典所長は同月20日、読売新聞奈良支局長宛ての抗議文書を送付し、遺憾の意を表明した[106] [107] [108] [109] 。
2016年 に医療サイト「ヨミドクター」の編集長として岩永直子 がHPVワクチン の特集を行い、積極的勧奨中止について批判する医師の記事を8月に掲載したところ社内外から批判が集まり問題視した読売新聞は12月に記事を削除する判断を行った。また岩永直子 を処分したうえで医療部がない支社に移動命令を出し、結果本人は退社した[110] [111] [112] 。
2020年 (令和2年)
2月4日 - 読売新聞北海道支社の記者が、覚醒剤取締法 違反(使用)の疑いで緊急逮捕される。
7月14日 - 読売新聞ソウル支局の記者が韓国 ソウル市 内のマンションで泥酔し、駆けつけた警察官の顔面につばを吐き、公務執行妨害 の現行犯で逮捕され在宅起訴。
11月16日- 報知新聞社 員の男が、東京都新宿区の路上で通学していた小学校5年生の男児の胸元を掴み、「右側を歩け」と怒鳴りながら身体を左右に振るなどして逮捕。男は7月にも新宿区の路上で男子高校生に対し胸を押した上、カバンで叩いたとして書類送検されており、男は「男子高校生が路上の左側を歩いた」などと話していた。
2021年 (令和3年)
9月 - 読売新聞東京本社 記者が週刊誌 の女性記者に不適切な関係を迫ったり、情報漏洩を行なったとして懲戒解雇処分。
2022年 (令和4年)
5月30日 - 読売新聞東京本社総務局付社員が、知人女性に性的暴行を加えようとしたとして、強制性交 等未遂容疑で逮捕。
6月18日 - 読売新聞北海道支社の記者が、札幌市内の書店でマンガ本1冊を万引きしたとして、窃盗 の現行犯で逮捕。逮捕後、北海道斜里町 ウトロ の「セイコーマート 」で、弁当や菓子など食料品9点を万引きしていたとして、21日に再逮捕。
2024年
1月6日 のオンライン版で「石川・穴水の避難所、40~50代の集団が自販機破壊し金銭盗む…目撃者『避難所がパニックに』」という記事を掲載し、地震による混乱に乗じた略奪行為が発生し、避難者が不安を訴えていることを報じた[113] 。この記事の中では、目撃者とされる男性や避難先の学校の校長の話として当時の様子とされるものが具体的に記述された。しかし北國新聞 は同日、自動販売機の破壊は避難者の飲料水を確保するためであり、石川県警が事件性はないとの見方を示していること、また関係者の話として「飲み物を確保するために自販機を壊していいか(管理者に)確認した」と報じた[114] 。読売新聞は翌1月7日 に記事を削除した。
3月13日 - 読売新聞東京本社 イノベーション本部社員が、東京メトロ 千代田線 千駄木駅 のホームで、ベンチに座っていた男性の顔を殴打した暴行容疑で逮捕。
4月18日 - 小林製薬 の紅麹(べにこうじ)製品取引先の反応などを扱った記事で、原稿をまとめた読売新聞大阪本社 社会部主任が、談話を捏造 (ねつぞう)していたことが発覚。記事を取材・執筆した岡山支局の記者も、取材先が発言していない内容と知りながら談話の修正や削除を求めなかった。読売新聞社は同日付夕刊で「重大な記者倫理違反であり、関係者、読者の皆様におわび致します」とし、関係者を処分する方針を明らかにした。
4月30日- 読売新聞大阪本社 は小林製薬製品による健康被害に関連し、取引先企業の反応をまとめた4月6日夕刊の記事で、企業社長の談話を 捏造した件の処分を発表。社会部主任は諭旨退職 、支局記者は配置転換、編集局長は給与3か月30%返上、編集局総務と社会部長をそれぞれ休職2か月、いずれも近くに更迭 。社長は報酬3か月10%返上、社会部次長、支局の別の記者を休職1か月、支局長をけん責 、地方部長を厳重注意とした。
5月29日- 読売新聞社員の男が、兵庫県内の児童相談所 に一時保護されていた妻の連れ子を連れ去ったとして未成年者略取 の疑いで逮捕・起訴。同じく起訴された妻と合わせて初公判が開かれ、2人とも起訴内容を認めた。起訴状などによると2人は共謀し3月16日午前、児相が一時保護中の子どもが幼稚園の卒園式に参加する機会を狙いタクシーに乗せ、児相職員の制止を振り切り連れ去ったとしている。検察側の冒頭陳述によると男は妻と前夫の子の3人で生活。近隣住民から「子どもの泣き声や大人の怒鳴り声がする」と児相に通告があったことなどから、昨年12月に児相が一時保護していた。
6月1日- 報知新聞社 は、スポーツ報知 のニュースサイトで4月から連載中の「甲子園100年物語」について、毎日新聞 に掲載されていた寄稿記事などから盗用があったことを明らかにした。一部は紙面にも掲載された。報知新聞社は「大部分が盗用だった」として連載を全て削除し、執筆した大阪本社編集局の記者を14日付で懲戒解雇処分とした。また、報知新聞社 本社編集局長を減給、編集局編集センター長とセンター次長を休職の懲戒処分。宮川元宏・取締役大阪本社代表は1カ月の報酬の10%を返上した。
8月23日- 読売新聞東京本社 のカメラマンの30代の男が、東京・千代田区 の歩道で、スケートボードをしていた男性の足を蹴った後、追いかけてきた男性の顔を殴ったとして、警視庁に現行犯逮捕 。「自分は働いているのに遊んでいる奴がむかつく」などと因縁をつけ、暴行に及んだ。
11月25日 - 大阪社会部で府警クラブに所属し2課担当だった記者と同クラブのサブキャップを務めていた記者の2名が、それぞれ同僚へのセクハラ行為等によって、諭旨解雇と停職1カ月の処分を受けたことについて新潮社が報道した[115] 。
どれどれ
「どれどれ」の特徴
「大きな眼」は、将来を見通し、先見性を持って報道にあたる読売新聞の基本方針を示している。新聞を読んでいるのは活字を大切にする姿勢を、緑色は環境を大切にする姿勢を象徴している。
「どれどれ」は、旺盛な探究心、好奇心を象徴する言葉である。
2005年 、スタジオジブリのプロデュースによる楽曲『どれどれの唄 』(唄:拝郷メイコ )が発表され、読売新聞の企業CMに使われた。「どれどれの唄」は読売新聞各本社に電話した際、部署に繋ぐ際の保留音にも採用されている。
因みに、宮崎駿は読売系列の日本テレビ のマスコットキャラクター「なんだろう 」も手掛けた。
だっち君
2002年 に読売新聞夕刊のイメージキャラクターとして登場したコウモリ のキャラクター。当初は夕刊のキャラクターであったが、後に購読申し込みのテレビCMや朝刊こども面のマスコットキャラクターにも起用された。読売新聞グループの中央公論新社 が発行する『中公文庫 』のイメージキャラクターとしても使われている。
日本のプロ野球 ファンの中で最も数が多い巨人ファンから見ると、読売新聞を巨人軍の「親会社」と考える者は多くても、巨人軍を読売新聞の「グループ企業」と見る向きは少ない[ 要出典 ] 。そのため、巨人軍に「読売」色が前面に出るのを嫌う人達も少なくない(むろん、巨人ファンの大多数が読売新聞の読者というわけでも、あるいは読売新聞の論調を支持しているわけでもなく、あくまで巨人軍という球団のファンであるに過ぎない)。また、読売ジャイアンツの通称としては「巨人」がマスコミも含め一般に浸透しており、「読売」と呼称するのはむしろアンチ巨人 の立場のファンに多く見られる。
900万部の信頼・世界最大の発行部数(1980年代後半)
1,000万部、読者と拓く新世紀(1990年代)
たしかメディア(1999年)
NEWS!(2002年)※CMキャラクターは唐沢寿明 。
読者と歩むあすの中部(中部支社)
中部をみつめ 世界をひらく(中部支社、2010年)※中部発刊35周年の際に使用
関西で、全国で、世界でNo.1(大阪本社)
action!(西部本社)※西部本社の福岡移転の際に使用
読む、いま。読む、先。読む、ほんとう。(2003年 - )
読む、声援(2004年 - )※スポーツ関連の際に使用
その新聞は、読売新聞でありますように。(2006年)※CMキャラクターは玉木宏 。
世の中を、人の中へ。(2006年)
今朝の読売新聞をご覧ください。(2009年1月限定)※ソフトバンクモバイル とのタイアップCM。
もっと、伝えたい。(2009年)※創刊135周年公式キャッチコピー。CMキャラクターはAKB48 (メインは前田敦子 )。
リアルのチカラ。(2010年)※CMキャラクターはEXILE のHIRO。
人が書く、人へ届ける。(2013年)
明日を、めくる。(2014年)
届けつづける。(2015年)
CM は日本テレビ系列 の放送局を中心に放送されているが、関東地区ではTBS 、フジテレビ 、テレビ東京 でも放送される場合がある。また、オリンピック 中継の際は読売新聞が日本オリンピック委員会 のオフィシャルパートナーである関係でテレビ朝日系列 でも放送される。2009年には正月 限定でソフトバンクの白戸家とタイアップしたCMを放送した。
読売新聞大阪本社東館(編集・制作・印刷部門が入居)
東京本社 東京都千代田区大手町一丁目7-1
大阪本社 大阪市北区野崎町5-9
西部本社 福岡市中央区赤坂一丁目16-5
印刷工場
読売新聞グループ関連印刷会社
(青森読売プリントメディア)
(福島民友新聞社)
(読売プリントメディア)
(報知新聞社)
(東海プリントメディア)
(読売大阪プリントメディア)
(関西図書印刷)
(メディアプレス瀬戸内)
(プリントメディア西部)
外部委託
ヨーロッパ
ロンドン(欧州総局)
パリ
ブリュッセル
ジュネーブ
ベルリン
ローマ
モスクワ
北米・中南米
ワシントン(アメリカ総局)
ニューヨーク
ロサンゼルス
ハバナ
リオデジャネイロ
東アジア
北京(中国総局)
上海
瀋陽
広州
香港
台北
ソウル
東南アジア
オセアニア
南西アジア
中東
アフリカ
最終版は、朝刊 14版、夕刊 4版。紙面枠外の上部に記載されている。
記事・写真の入稿締め切り時刻や、版ごとの配達地域は公表されていない。
北海道 (石狩管内 、上川管内 、空知管内 、後志管内 、胆振管内 、日高管内 )、茨城県 、栃木県 、群馬県 、埼玉県 、千葉県 、東京都 、神奈川県 、山梨県 、静岡県 、富山県 、石川県 、滋賀県 、京都府 、大阪府 、兵庫県 、奈良県 、和歌山県 、山口県 、福岡県 、沖縄県 では、一部地域を除いて朝夕刊セット[117] 。その他の県は朝刊統合版だが、特に中部支社版のみは対象地域全域が朝刊単独である。
なお、静岡県向けの夕刊及び、西部地方向け朝刊に限っては社内事情により、中部支社管内の清須 工場で印刷しトラック輸送している(こちら を参照のこと)。
また、沖縄県では東京本社発行版と西部本社発行版が朝夕刊とも空輸で送られ、お昼過ぎから翌朝にかけて配達されている。
さらに、西部本社管轄で統合版地域では、佐賀県 と熊本県 、鹿児島県 では、JR 佐賀駅 ・熊本駅 ・鹿児島中央駅 のキヨスクで夕刊早版が販売されている他、大阪本社管轄で統合版地域の岡山県 でも、JR 岡山駅 のキヨスクで夕刊早版が販売されている(岡山・佐賀・熊本・鹿児島3県とも宅配及び番組表の差し替えはなし)。
なお、西部本社管轄の大分県 も大分市 や別府市 、中津市 の一部が朝夕刊セット地域だったが、2014年 4月30日 をもって夕刊の発行を休止した。全国紙や地方紙 の夕刊廃止がここ数年続いているが、朝夕刊セット地域で朝刊単独に移行するのは読売新聞では大分県が全国で初の事例になる[注釈 24] 。
読売新聞の縮刷版 は1958年9月号より刊行されており、毎月下旬に発売している。一か月分(東京本社発行最終版=東京23区 内版)の全紙面をA4サイズに縮小し、一冊の本にして発行。全国の図書館 などで閲覧することができる。
書籍の他、CD-ROM による読売新聞縮刷版も毎月下旬に発売されている。
日本図書センター より1945年から1948年までの「讀賣報知」「讀賣新聞」紙面の復刻縮刷版が全8巻で刊行されている。
また、通常の縮刷版とは別に、重大事件・事故・災害が起こった際に、関連ニュースを中心とした「特別縮刷版」を発行する場合もある。例を挙げると、1995年 1月17日 に発生した阪神・淡路大震災 の際は、1月17日付号外から2月17日 付夕刊まで、普段は縮刷版を発行していない大阪本社発行の最終版紙面からの重要記事を一冊の本にまとめた「大阪読売特別縮刷版 阪神大震災」を発行した。また、2011年 3月11日 に発生した東日本大震災 の際は、3月11日付号外 から4月11日 付夕刊までの紙面(いずれも東京最終版)からの重要記事を一冊の本にまとめた「読売新聞特別縮刷版 東日本大震災1か月の記録」(ISBN 978-4643110067 )を発行した。さらに、2016年 4月14日 に発生した熊本地震 の際には、4月15日 の本震の際に発行した号外から4月27日 付朝刊まで、普段は縮刷版を発行していない西部本社発行の最終版紙面からの重要記事を一冊の本にまとめた「読売新聞特別縮刷版 熊本地震」(ISBN 978-4643160055 )を発行している。
新聞販売店 の愛称 は「YC 」。これは「Y omiuri C enter」の略称で、それまでは東京、中部、西部各本社(中部は現在支社格下げ)の管轄地域は「YSC 」(Y omiuri S ervice C enter)、大阪本社管轄地域のみ「読売IC 」(Yomiuri I nformation C enter)といっていたのを2000年 の創刊125周年達成を機に統合した。近年では新聞の販売のみではなく、YCによる地域に特化した情報を提供する「ヨミパラ 」のような試みも見られる。
大阪発祥の朝日新聞、毎日新聞と違い、読売新聞は新聞統制 による一時撤退後、1950年代から関西に本格展開している。
北陸3県 においては、富山県 と石川県 は東京本社傘下の北陸支社管轄となっているが、福井県 は大阪読売発刊までは東京の管轄であった。1952年の大阪読売発刊と同時に、福井県が近畿地方 に近いことから大阪管轄に切り替わった。
中部支社版の紙齢(創刊からの号数)は、2002年6月30日付までは「中部読売新聞」として創刊された時からの紙齢だったが、同年7月1日付から、東京本社の支社になったことに伴い、東京本社版と同じ紙齢になった。ちなみに「中部読売新聞」が「読売新聞」になる1988年5月31日付までは、東京本社が東海3県 (愛知県 、岐阜県 、三重県 )向けの地方版「中京版」を発行していた(中京版のテレビ・ラジオ欄は静岡県遠州版 と共有だった)ため実質的には東京本社発の「中京版」と、中部読売(現中部支社)の発行する「中部読売新聞」が併売された格好だった。
三重県の伊賀地方 は東京管轄であったが、1988年6月1日に中部読売の読売本体への合流に伴い大阪本社管轄に変更された。伊賀地方は京阪神 通勤圏に近く、朝日新聞 、毎日新聞 など他の全国紙が大阪管轄であることを考慮して大阪管轄に切り替わった。熊野市 以南などの東紀州 地方では朝日・毎日など他の全国紙は伊賀地方と同様大阪管轄であるが、読売のみ現在も東京(中部支社)管轄である。
九州 及び山口県 においては、1964年の西部本社版発刊以前は大阪本社版が販売されていた。
東京本社は1997年の函館新聞 への記事配信を皮切りに、「地域紙記事写真配信サービス」を開始した。読売からの記事提供を受けている地方紙 は読売系列と誤解されることがままあるが、同サービスを受けている地方紙は福島民友 以外資本関係はない。
茨城県 では2020年5月から創価学会 機関紙 である聖教新聞 や公明党 機関紙である公明新聞 などの配達業務を受託した[118] 。
アメリカ
イギリス
フランス
ドイツ
オーストラリア
中国
韓国
アジア各国
注釈
2019年4月度ABC部数の最も大きい減少は読売新聞で、1か月約6万部、1年約42万部減である。
社長就任前は、横浜税関の翻訳官を務め、『横浜毎日新聞 』の記者でもあった。
夕刊のスクリーントーンは夕刊創刊時〜 1993年 11月30日 までは東京本社、および東京本社傘下の北海道・北陸両支社版のみで、バックに灰色と白の縦じまを入れていたものであった。1993年にカラー化が本格的に進むと、同年12月1日付より大阪本社・西部本社を含めて夜をイメージする薄い青紫色に白の縦じまを入れたトーンが採用された。題字へのトーン廃止後は発行所(札幌、東京、高岡、名古屋、大阪、福岡)を記載する欄にトーンの配置を変更。朝刊は黄土色、夕刊は薄い青紫色のバックを使っている。
2009年5月31日付までは西部本社管轄の北九州工場で印刷されていたが、輸送上の問題から大阪本社管轄の尾道工場の印刷に切り替えた。
同時期時点での購読代金は、月ぎめが朝・夕刊セット版地域4400円、朝刊統合版地域3400円。1部売りは朝刊150円、夕刊(セット版地域のみ)50円である。
川鉄・川重とも登記上本店は神戸市 である。なお川鉄はその後NKK と統合、JFEスチールとなって以後、登記本店を東京都 千代田区 に移している。
実際に川崎重工がチームの広告看板スポンサーに就いたこともあった。現在はヴィッセル神戸 の広告看板スポンサーに就いている。
1995年で解消。その後は横浜市にホームタウンを統合。
1998年に横浜Fが横浜Mに吸収される形で統合され、現在は横浜F・マリノスである。なおフリューゲルスのサポーター有志により、改めて横浜FC が設立。JFL (当時のJリーグの3部に当たる組織)への特例参加を経て2001年にJリーグに参加している。
2020年3月までは岩手日日新聞社 の関連会社「青森高速オフセット」への委託だったが、運営会社の事業譲渡により同4月から読売新聞東京本社に移譲。10月に社名を変更し事実上の直営化となった。
岩手日日新聞社 の関連会社の工場(仙台高速オフセット、栃木高速オフセット)で印刷。
「北日本新聞・創造の森 越中座 」にて印刷。2011年3月21日に、それまで高岡工場(北陸支社内)で印刷していた石川 ・富山 両県発行分の印刷を引き継いだ(それと同時に最終面左下隅での表記も「北陸 」から「富山 」に変更となった)。