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賀茂規清

山城国出身の江戸時代の神道家 ウィキペディアから

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賀茂 規清(かも の のりきよ、1798年 - 1861年)は、山城国出身の江戸時代神道家烏伝神道を唱導した。八丈島に流罪[1]。梅辻規清[1]とも。

概要

上賀茂神社社家に生まれる。家の名が梅辻で、本姓賀茂県主である[2][3]。江戸の下谷池の端の「瑞烏園」で主に神道を講釈するなどした。幕府に神道的な観点から献策し、「忠孝山」の建設などを提起した[4][5]

1847年、「政道を批判」したとして八丈島に流罪の判決が下された[6][7]。流罪途中、三宅島を中継地としたが、ここで後の禊教につながる神道家の井上正鉄と会見している[6]

黒羽藩の第11代藩主である大関増業は規清に師事していた[8] 。また、規清は流罪後に同じ流民で民衆活動家の菅野八郎と接点があった[7]

八丈島では中之郷の山下鎗十郎宅で100冊もの教書を著し、島民の子弟の教育も行った[1]。文久元年(1861年)7月21日に同島で死去[1]。八丈島の墓所は梅辻規清墓として東京都指定史跡となっている[1]

思想

日本書紀』の神代を、「万人の系図」と「帝王の系図」に分けた上で、後者は天皇家の始祖である「羽明玉ノ御祖王」と三十二神による国家建設の話とした[9]

関連作品

出典

外部リンク

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