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越後高田藩松平(越前)家家臣団

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越後高田藩松平(越前)家家臣団(えちごたかだはんまつだいらえちぜんけかしんだん)では、越後国高田藩松平光長の家臣団のうち、越後騒動の首謀者となった主要1000石以上家臣などを挙げる。

概要

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越後高田城三重櫓(新潟県上越市)

松平光長は将軍徳川秀忠の孫であり、江戸城中で養育された。1620年(元和9年)、越前68万石北荘藩主松平忠直は不行跡により隠居・配流となった。幕府は嫡子である光長に一旦相続させたうえで、忠直の弟で越後高田藩主であった松平忠昌を福井へ転封、松平光長は越後高田藩26万石[1]へ移封した。旧・忠直の家臣団のうち、幕命により選抜された百余名の家臣、および附家老本多富正は福井藩の付属とされたが、福井藩の巷説を集めた『国事叢記』によると「忠昌の北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣のうちの105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣[2]は光長に随って越後高田藩臣となった。また、老臣5人のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守岡島壱岐守本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した」とされ、幕府の選に漏れ、他藩へ仕官しなかった越前藩士が、高田移封時の家臣団となったと推測される。1681年(天和元年)、越後騒動の罪を問われ改易となった光長は伊予松山藩に預けられ、配所賄料として1万俵が支給された。1687年(貞享4年)光長は老齢であり、光長自身は公儀に対して謀反の行いはなかったとされて赦免され、江戸へ帰還し、合力米3万俵を与えられた。1697年(元禄10年)光長は隠居するが、翌1698年(元禄11年)、養子の松平宣富美作津山藩が与えられ、津山藩が立藩した。高田時代は前述のように越前よりの家臣で構成されるが、改易とともに一部の小栗派以外、大幅にその家臣団は縮小された。津山藩ではこの光長の松山配流時にも随行した家臣を譜代、合力米3万俵時代に召抱えた家臣を古参、宣富の津山立藩以降に召抱えた家臣を新参と称した。また、江戸帰還後に廃嫡となった松平綱国の子孫は永見と改姓し、津山藩家老連綿の家系となった。

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主要家臣団家禄変遷

要約
視点
さらに見る 人物名, 荻田隼人 ...


※人名斜体字は越後騒動時の小栗派人物

  1. 結城秀康給帳
  2. 源忠直公御家中給帳
  3. 越州高田御家中
  4. 越後従三位御家中人別録附
  5. 松平越後守中将光長家中并知行役附
  6. 越後高田惣家中知行并役附
  7. 越後中将様御家中諸士知行附
  8. 越後従三位中将光長卿様御家中知行役附
  9. 後越州御家中分限帳
  10. 越州之士分限帳
  11. 越後騒動将軍徳川綱吉親裁
  12. 柳原時代分限帳
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脚注

参考文献

関連項目

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