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鎌田政清

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鎌田政清
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鎌田 政清(かまた まさきよ)は、平安時代末期の武将。名は正清正家政家とも。藤原秀郷首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。

概要 凡例鎌田政清, 時代 ...
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野間大坊にある政清(政家)夫妻の墓
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報恩寺は政清の母が政清の菩提を弔うため建立した寺

源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母であり、義朝と同い年だったため乳兄弟として最も信頼された。

生涯

保元元年(1156年)7月の保元の乱で義朝に従って従軍し、源為朝に挑むがとても敵わぬと見て退いている。

平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。待賢門の戦いでは義朝の長男・義平と共に平清盛の長男・重盛と戦い活躍する。六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて、義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。

途中、近江国の落武者への捜索の苦難に遭いながら、義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。だが忠致の裏切りにあい、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された(『平治物語』)。享年38。『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。

文治元年(1185年9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって、義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。建久5年(1194年10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。頼朝は政清の忠義に報いるため遺児を探したが、男子がいなかったため、この娘に尾張国篠木庄春日井市の北東部から小牧市の東部)、丹波国田名部庄(舞鶴市北田辺・南田辺)の地頭職を与えている(『吾妻鏡』、ただし吾妻鏡の丹波は丹後の誤記)。

なお、『源平盛衰記』には鎌田盛政光政の兄弟、『義経記』には、鎌田正近がそれぞれ政清の遺児として登場するが、いずれも吾妻鏡などの史料に名前の見られない限定的な人物であるため、実在していない可能性が高い。

政清夫妻の墓は、主君・義朝と同じ愛知県美浜町野間大坊の境内に現存する。

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脚注

関連作品

関連項目

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