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長屋尚作
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長屋 尚作(ながや しょうさく、1882年(明治15年)6月19日[1] - 1976年(昭和51年)9月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功五級[2]。
経歴
群馬県出身[1]。群馬県士族で歩兵第21連隊長等を歴任した長屋尚緝の息子として生まれる[3]。大阪陸軍地方幼年学校第1期[4]、陸軍士官学校第15期を卒義し[1]、日露戦争に出征した[4]。1920年(大正9年)8月に陸軍歩兵少佐に進級し、1923年(大正12年)9月時点で第5師団副官の任にあった[5]。1924年(大正13年)8月に陸軍歩兵中佐に進級し、9月時点で歩兵第71連隊附に転じ[2]、1924年(大正14年)9月時点で歩兵第3連隊附となり、東京農業大学に配属された[6]。1925年(大正15年)には第1師団司令部附となったが東京農業大学配属は継続し[7]、1927年(昭和2年)7月には近衛歩兵第2連隊附に転補した[8]。
1928年(昭和3年)3月に陸軍士官学校予科生徒隊長に着任[9]、1929年(昭和4年)3月に陸軍歩兵大佐に進級し[9]、1932年(昭和7年)4月に歩兵第3連隊長(第1師団・歩兵第2旅団[10][11])に転じた[9]。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将進級と同時に歩兵第40旅団長(第20師団[12][13])に着任し[1][9]、1935年(昭和10年)3月15日に待命となり[1]、3月30日に予備役に編入された[1]。太平洋戦争開戦後に召集され、朝鮮軍報道部長に就任し[4]、1945年(昭和20年)2月1日に朝鮮軍管区司令部附を発令された[14]。
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脚注
参考文献
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