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阪正臣
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阪 正臣(ばん まさおみ、安政2年3月22日(1855年5月8日)[1] - 昭和6年(1931年)8月26日[1][2])は、日本の歌人、書家、古筆研究家、宮内省御歌所寄人。正四位勲三等。

来歴
愛知県の名古屋に生まれる[1]。国学を平田銕胤・権田直助に学び[2]、和歌を坂広雄・富樫広厚に学ぶ[2]。砥鹿神社、鎌倉宮、伊勢皇太神宮奉仕などを経て[2]、華族女学校教授に就任[2]。御歌所寄人や大嘗祭主基方歌作者を務めた[2]。1922年刊行の『明治天皇御集』の浄書も手がけた[2]。
御歌所長である高崎正風や大口周魚らが結成した難波津会(上代様の仮名書道研究会)に所属した。穏健な親しみやすい仮名で、女子用書道教科書の手本を書いたため、その書風が流行した。石碑の書も手がけ、全国に25基ほどの石碑を確認できる[4]。
墓所は青山霊園にある。
息子の阪匡身は、父の遺稿を整理して『樅屋全集』を編纂した[2]。匡身は、海軍少将の時に戦艦扶桑の艦長を務め、1944年10月25日、レイテ沖海戦のスリガオ海峡の戦いで、扶桑が米艦隊に撃沈された際に死亡した。戦死後、海軍中将に任じられた。

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著書
- 『樅屋詠草』
- 『樅屋全集』1932年8月、非売品
- 『樅の小枝』
- 『正臣歌集』
- 『ちたのはぐさ』
脚註
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