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霓 (駆逐艦)

雷型駆逐艦 ウィキペディアから

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(にじ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[8]。 「霓」は「」と同じ意味[18]。 一説には「虹」が雄、「霓」が雌という[8]。 遭難艦は艦名を引き継がないという原則があったために、同名艦はない[18]

概要 霓, 基本情報 ...
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艦歴

建造

発注時の艦名は第十二号水雷艇駆逐艇[19]1898年(明治31年) 1月に起工[8]、 8月27日に「第十二号水雷艇駆逐艇」を「(ニジ)」と命名[20]1899年(明治32年) 10月18日に水雷艇籍の駆逐艇に類別[2]、 12月16日進水[8][9]1900年(明治33年) 1月1日竣工[8][10]。 回航員は1月5日に到着し[21]、 1月20日全員が乗艦した[22]。 2月11日に「薄雲」と共に[23] イギリスを出港し[24]、 5月26日横須賀に到着した[6][24]

6月22日、駆逐艇(水雷艇籍)は軍艦籍の駆逐艦に変更となり[25]、 「霓」は軍艦籍に編入され駆逐艦に類別された[6][3]。 6月23日から「霓」は大島沖と小柴沖で大砲公試発射、水雷公試発射を行い[26][27]、 結果は良好だった[28]

喪失

同1900年に北清事変が起こり、7月22日、「霓」は「」と共に清国へ出勤し清国での警備を「薄雲」「陽炎」と交代することを命じられた[18]。 「霓」と「朧」は7月26日に呉港を出港、「霓」は済州島での「薩摩丸」座礁を報じるために一旦引き返して、7月28日に対馬の竹敷に到着、再び清国へ向かった[18]。 しかし7月29日、清国山東省南東岬沖で濃霧のため座礁した[6]。 遭難の原因は艦位置の誤認であった[6][18]。 船体の破壊が進み、8月3日午前8時45分に軍艦旗降下、「霓」は放棄された[18]。 乗員は救援に来た「豊橋」に収容され、8月3日に佐世保に帰着した[18]。 その後船体は水中に没した[18]1901年(明治34年)4月8日除籍[6]

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艦長

※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

回航委員長
  • 財部彪 大尉:1899年7月25日 - 1899年10月6日
艦長
  • 財部彪 少佐:1900年6月22日 - 1900年7月4日
  • 荒川仲吾 大尉:1900年7月4日 - 1900年8月10日

脚注

参考文献

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