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青山定司 (映画監督)

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青山 定司(あおやま ていじ、1945年6月30日 - 1980年5月20日)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサーである[1][2]。第1回ヨコハマ映画祭で自主製作賞を受賞した『家獣』で知られる[2][3]

概要 あおやま ていじ 青山 定司, 生年月日 ...

人物・来歴

1945年(昭和20年)6月30日関東州(現在の中華人民共和国東北部大連市に生まれる[2]。同年8月15日、第二次世界大戦が終結し、引き揚げ後、両親は東京都渋谷区恵比寿で仏具店を開く[2]

1968年(昭和43年)3月、駒澤大学経済学部を卒業、青山デザイン専門学校(現在の東京デザイン専門学校)アニメ科に進学する[2]。満23歳を迎える同年、初めての8mmフィルム作品『追憶』を発表する[2]。1971年(昭和46年)には、同専門学校の学園紛争をテーマに監督・製作した『たろうトウキョウ』を発表する[2]。その後、実家の仏具店を手伝い、日本映画新社の屋上にあった日映美術撮影助手を務めていたが、1974年(昭和49年)、坂英之を主演に『TAKE IT EASY』を監督・製作、公開する[2]

1975年(昭和50年)2月13日、満29歳のとき、坂英之・桂木梨江の主演を得た初めての16mmフィルム作品『信天翁』を公開する[1][2]。桂木は同作がデビュー作となり、同年に公開された『祭りの準備』では、第18回ブルーリボン賞新人賞、第49回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞にノミネートされている[4]

『八月の濡れた太陽』(1976年)、『美しき玩具たち』(1977年)を経て、1979年(昭和54年)、『家獣』を撮影、同作仕上げ途中の同年4月、東京大学医科学研究所に入院する[2]。開腹手術後、退院して再編集、同年10月3日、同作を公開する[1][2]。『小型映画』(編集長日比野幸子玄光社)誌上で批評家の宇田川幸洋が同作を賞讃する[2]。同作には、作家の鈴木いづみや『映画評論』元編集長の佐藤重臣が出演し、音楽に鳴瀬喜博近藤達郎が名を連ね、金子マリ&バックスバニーが参加していた[2][5]。同作に主演した俳優の麻生亮は、同年11月26日、青山の『美しき玩具たち』に出演した高野光弘、『家獣』に出演した深沢裕子、あるいは左時枝らの出演を得た監督作『棺の花』(原作水上勉)を公開している[6]

1980年(昭和55年)2月3日、第1回ヨコハマ映画祭において、『家獣』の製作・監督に対し「自主製作賞」を受賞する[2][3]。同年5月20日直腸癌のため死去した[2]。満34歳没[2]。それに先立つ数か月前に、妻の青山三江子も病により亡くなっている[2]

没後、ことばと文化センター新宿日本語学校(CLC新宿日本語学校、現在の新宿日本語学校)内に「青山定司フィルム・ライブラリー」が設置され、作品が管理されるが、その後、散逸している[2]。『家獣』については、1980年代に中野武蔵野ホール(2004年5月8日閉館)で再映された記録がある[2]

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フィルモグラフィ

  • 『追憶』 : 1968年公開 - 監督・撮影[2]
  • 『淋民(たみ)』 - 監督・撮影[2]
  • 『是怨伝』 - 監督・撮影[2]
  • 『無頼みやこの子守唄』 - 監督・撮影[2]
  • 『たろうトウキョウ』 : 1971年公開 - 監督・撮影[2]
  • 『TAKE IT EASY』 : 主演坂英之、1974年公開 - 監督[2]
  • 信天翁 : 主演坂英之・桂木梨江、製作:青山プロダクション、1975年2月13日公開 - 製作・監督・脚本・撮影・編集[1][2]
  • 『八月の濡れた太陽』 : 1976年公開 - 監督[2]
  • 美しき玩具たち : 製作:花魁譚、1977年9月7日公開 - 監督・脚本[1][2]
  • 家獣 : 製作:シネマギルド花魁譚、1979年10月3日公開 - 監督・脚本[1][2]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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