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風魔 小太郎(ふうま こたろう)、風摩 小太郎は、相模国足柄下郡出身で、風魔一族(ふうまいちぞく)ないし風魔忍者(ふうまにんじゃ)を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領。後北条氏滅亡後は江戸へ上り、盗賊になったとされる。根拠地は武蔵国や足柄山地ともいわれる。『北条五代記』の風魔と、風魔に関連する『見聞集』の逸話、『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎から生まれた伝説の忍者である。
1932年の白石実三『武蔵野から大東京へ』に登場。1963年-1964年のテレビ映画『隠密剣士』第5部・第6部で天津敏が演じた風摩小太郎(の子孫)は最高視聴率40%超を記録した。1980年代以降のモチーフ作品に車田正美『風魔の小次郎』、隆慶一郎・原哲夫『花の慶次』、鎌谷悠希『隠の王』など。2006年からPS2の戦国BASARAシリーズ・戦国無双シリーズ、2015年からスマホ向けRPG『Fate/Grand Order』にゲームキャラクターとして登場。
寛永18年(1641年)刊の三浦浄心『北条五代記』[1] によると、天正9年(1581)に北条氏直が黄瀬川で武田勝頼・信勝の軍勢と対陣したとき、氏直が扶持した乱波の1人・風广(風魔・風摩)は「四頭(四盗)」と200人の徒党を率い、武田の陣に夜討ちをして相手を苦しめた。
氏直乱波。200人扶持し給ふ中に。1の悪者有。かれが名を。風广と云。たとへば西天竺。96人の中。1のくせ者を外道といへるがごとし。—『北条五代記』寛永版 巻9「関東の乱波智略の事」より[2]
同書によると、風广は、謀計・調略に非凡な才能を発揮し、武田軍の兵士はその風貌について、身の丈が7尺2寸(約218cm)あり、目や口が裂けて、牙が4本出ているなど、人間離れしていると噂した、という。作中では、風广の出自などは明らかにされていない。
万治2年(1659年)に『北条五代記』の絵入り本が刊行された後、同4年(1661年)に刊行された『古老軍物語』は、「乱波」とは「忍びの者」であり、風广は近江の甲賀出身の風間(かざま)の三郎太郞で、どんなに厳しい番所をも忍び入るので、「風間」と名付けられた、と解釈し直した[3]。なお、「甲賀三郎」は、諏訪大社の縁起物語の主人公の名である[4]。
寛文12年(1672年)刊の推定・浅井了意著『鎌倉管領九代記』[5] は、永享12年(1440年)から翌年にかけての結城合戦のとき、結城城を包囲した幕府軍の総大将・上杉清方の命を受けた相模国足下郡に住なれた忍びの上手・風間小太郎が密使として城中に入り、籠城方の城将・山内氏義(山川基義)を離反させることに成功した、と伝えている。
管領(くはんれい)大に喜ひ給ひて。其頃世に隠れなき忍びの上手に相模(さかみ)国足下郡(あしものこほり)に住なれし。風間(かさまの)小太郎といふ者をぞつかはされける。—『鎌倉管領九代記』巻4(持氏)下「千葉介軍評定付山内氏義出城」より[6]
寛文6年(1666年)刊の浅井了意『伽婢子』では、武田軍が信州割峠(割ヶ嶽城)に出馬した永禄4年(1561年)頃[7]、武田信玄が今川氏真から借りて秘蔵していた『古今和歌集』を盗み出して甲州の西郡を風のような速さで進んでいた犯人が、歩行の達者・熊若に捕えられ、「(前略)我は上州箕輪の城主・永野が家につかへし竊(しのび)のもの、もとは小田原の風間が弟子也。わが主君の敵なれば信玄公をころさんとこそはかりしに、本意なき事かな。(後略)」と言い残して、殺される[8]。
同じ『伽婢子』の中で、越後国・春日山城にやってきて「牛をのむ」などの幻術を披露して人々を驚かせ、長尾謙信に召し出されて家臣の直江山城守の家から長刀と「女の童(めのわらは)」を盗み出し、危険視されて逃亡した後、武田氏に仕官しようとして殺されていた「名誉の窃盗(しのび)」飛加藤は[9]、元禄11年(1698年)の槇島昭武『北越軍談』では「小田原の風間が弟子」と同一人物とみなされ、風間次郎太郎の伝授を受けたとされるようになった[10]。
天文元年(1736年)の江島其磧の浮世草子『風流軍配団(うちわ)』では、風間の三郎大夫とその弟子の飛加藤は、2人で長尾謙信に仕え、武田氏との合戦で夜討ちや盗みをして活躍するが、のち風間は郷里の近江で逼塞する。飛加藤に三浦の大介殿着用の鎧を盗まれた北条早雲の家中はこれに対抗するため風間を召し抱えようとするが、譜代の家臣・大道寺新蔵人が「武士の正道ではない」と反対し、風間は後北条氏に仕えないまま物語が終わる[11]。
享保11年(1726年)成立の槇島昭武著『関八州古戦録』では、河越夜戦のとき、風間小太郎の指南を受けた二曲輪猪助が、北条氏康の命を受けて、敵方の上杉氏の陣に斥候として差し向けられる[12]。
風魔小太郎は、戦前の忍術映画などに登場した形跡がほとんどなく、大正の頃流行した立川文庫にも名が出てこないと指摘されている[13]。一方で、戦前には下記の関連作品が刊行されている。
『北条五代記』の著者・三浦浄心の子孫の家に秘書として伝えられた『見聞集』は、化政期頃から写本で流布し、明治期以降、1901年、1906年、1912年、1916年と、たびたび翻刻が刊行された。
『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領は、みな昔有名だったいたづら者、風魔の一類らっぱの子孫どもです。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたが、その後、向崎甚内も「大盗人」だったことがわかり、慶長18年(1613年)に浅草原で処刑された、との逸話を載せていた[14]。
向崎(高坂)甚内については、『見聞集』が流布したとみられる時期より前の享保17年(1732年)の『江戸砂子』に、浅草・鳥越で処刑された後に瘧(マラリア)の神とされるようになったことの紹介があり[15]、馬場文耕『皿屋敷弁疑録』などによって、武田の遺臣、『番町皿屋敷』のお菊の父、辻斬りをして逐電し諸国を放浪した、などの後伝が発展していた。
文化13年(1816年)頃に成立した十方庵『遊歴雑記』第3編[16] は、幸坂(向崎)甚内を盗賊出身で江戸で有名になった「日本三甚内」の1人として紹介した。他の2人は、忍術と大力で日本中から人を探し集め、駿府の遊女屋を江戸へ移して新吉原を起した庄司甚内と、剣術・柔術・早業を極め、大久保忠度によって死罪を許されて、横目をしながら富沢町で古着商を営んだ鳶沢甚内とされた。
庄司甚内や鳶沢甚内は、1920年-1923年の矢田挿雲『江戸から東京へ』[17] や1928年の三田村鳶魚「慶長前後の泥坊」[18] の中で、小田原北条氏に仕えていた忍術使いとみなされるようになった。
1928年に三田村鳶魚は、雑誌『中央公論』に寄稿した、江戸初期の犯罪に関する考証もの「慶長前後の泥坊」の中で、『見聞集』の「風摩が一類らっぱの子孫ども」の逸話に触れ、「風摩」を『北条五代記』に登場する怪しげな人物として紹介し、別に『鎌倉公方(管領)九代記』に登場する、相模国足下郡の住人・風間小太郎という者もいたとして、「相模の風間の一族は斯る場合に著しい能力ある者として知られて居た」と解釈していた[19]。
1932年10月から翌年2月にかけて『読売新聞』夕刊に連載された白石実三のオムニバス小説『武蔵野から大東京へ』には、武蔵野の妖盗・風摩小太郎が登場する。「妖盗風摩小太郎」の話の前段では、家康の関東入国前の或る日の昼、江戸の商家に、秩父の猿まわしが現われ、その日の晩、この家に風摩小太郎率いる黒装束の「乱発(らっぱ)」集団が強盗に入る。話の後段では、風摩小太郎と乱発集団は武蔵野から多摩川を越えて黄瀬川へ遠征し、武田軍と戦う。
一味は、すなはち『乱発(らっぱ)』と呼ばれた関東の怪盗である。関西では、これを『素抜』といってゐた。両方とも『群盗』『忍術使ひ』といふ意味であるが、ラッパ、スッパともに、日本語ではないらしい。スッパ・・・・スッパぬく・・・・SPY(スパイ)・・・・外来らしい音だ。『乱発』の大首魁を、風摩小太郎といった。—白石実三「妖盗風摩小太郎」より[20]
前島康彦は、白石の『武蔵野から大東京へ』は、同じ『読売新聞』で連載された矢田の地誌読物『江戸から東京へ』の影響を受けており、矢田が旧東京市内を対象としたのに対し、白石は専ら新区に舞台を繰り広げた、としている[21]。しかし『武蔵野から大東京へ』によると、白石は旧区の話題も取上げており、むしろ話の内容が地誌を離れて空想味を強めていたようである。前島によると、「大森貝塚」の話の中で、出土した人骨にカニバリズムの痕跡がみられるとして、それを肯定していた点などが当時一部で物議をかもした、といい[21]、白石は、何度か出てくる人肉嗜食の話題のほかにも、「人柱奇談」「家伝河童の妙薬」「雪をんな」「秩父の怪蛇」など、怪物・奇人の話題と史話を組合せて話を展開している。
『武蔵野から大東京へ』は好評を博して翌年に単行本が刊行され、1938年・1954年に再刊[22]。白石の著書の中でも売れ行きはかなり良かったという[22]。
1933年4月、三田村は「慶長前後の泥坊」の「江戸叢書」収載にあたり、内容を大幅に改稿し、風摩小太郎について以下のように解釈し直した。
北条氏直はその中でも多くのラッパを持ってゐて、200人ほども扶持して居った。その中の大将を風摩(ふうま)といって、これがラッパの中でも有名なものでありました。身の丈が7尺2寸もあり(・・・)随分怪しげな状貌で、変った恰好をしてゐる。これは相州足柄下郡に住んでゐた風間小太郎(かざまこたろう)といふ者なのですが、『カザマ』と云はずに『フウマ』とよませてゐる。関東でも名高いラッパでありました。(・・・)風間(ふうま)の一族は相模に蔓(はびこ)って居って、北条氏康の為に一族を率ゐて特別任務についた。—三田村鳶魚「乱波出抜」より[23]
(1940-50年代)
小源太は、家へはいると、そっと納戸から刀をとりだして来て、裏の井戸ばたで、ごしごしと、とぎはじめた。(・・・)
「小源太や。なにをしているの、あぶないよ。」
おかあさんは、きっぱりといった。
やさしい声がした。おかあさんが、畑から、もいで来たあきなすびをかごにいれて、うしろに立っていた。
「おかあさん・・・・・・。おいらの家はぬすびとじゃないね。」
小源太は、きゅうにかなしくなって、おかあさんの胸に、とびついてなきだした。
「おとうさまは野武士でしたが、けっしてぬすみはしませんでしたよ。」—風間小源太とおかあさん、中澤巠夫『富士の風魔』より[27]
中沢や海音寺は、「実録文学」を志して戦前から三田村鳶魚の講話を聞く「満月会」に参加し、戦後も毎月「矢立会」を開いて三田村の話を聞き、また経済面でも援助するなど、三田村と交流の深い作家だった[29][30]。
後年、中沢が著した考証もの「江戸を震撼させた風魔一党」によると、中沢は、それまでの創作で用いられていた「風摩」表記は『改定史籍集覧』の『北条五代記』[31] にみえるが、『古事類苑』にある同書からの引用文[32] は「風魔」表記になっていることに気付き、「風魔という文字の方が、いかにも、乱波ものを象徴しているようだから」「風魔」表記を採用したという[33]。「風魔」表記は海音寺の作品でも用いられている。
(1960年代)
(1970-80年代)
身の丈7尺2寸とはそれが偽装のため作られた伝説とはいえ、異常すぎる。(…)これは現実の小太郎が常人より小柄であることを明かすものではないか。目はさかさまに裂け、四本の牙があるというのも異常だ。(…)実際の小太郎は武人にふさわしからぬ優しげな容貌の持ち主なのではないか。—隆慶一郎、『影武者徳川家康』より[43]
(1990-2010年代)
1928年の三田村鳶魚の『中央公論』掲載稿「慶長前後の泥坊」は、改稿されて1933年の『江戸の白浪』[52] に収録され、同書の再版が度々刊行されている(1956年、1966年、1975年、1988年、1997年)。その他にも下記の考証もの一覧に掲げた各書がある。特徴的な言説の初出を挙げれば下記のとおり。
(注)「参考文献」節に掲げた各書を除く。
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