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馮去疾
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馮 去疾(ふう きょしつ、? - 紀元前208年)は、秦の政治家。趙の華陽君馮亭の後裔とされ、秦の御史大夫にして将軍の馮劫、始皇帝から恵帝にかけて仕えた馮毋択、文帝に仕えた馮唐らは同族にあたる[1]。
生涯
始皇37年(紀元前210年)癸丑の日、始皇帝が最後の巡遊に出たとき、左丞相の李斯が随従し、右丞相の馮去疾が国都咸陽を留守する役を担った[2]。しかし『趙正書』では、馮去疾は御史とされ、始皇帝の巡遊に同行し、胡亥を二世皇帝に立てるよう進言している。
二世皇帝元年(紀元前209年)、二世皇帝胡亥が東方に巡行し、始皇帝の作った始皇七刻石に追記したとき、馮去疾は李斯とならぶ丞相として名を刻まれた[3]。また、この年に作られた度量衡の標準器に記された権量銘には、「丞相斯去疾」とあり、丞相として李斯と馮去疾が列していたことが考古的にも裏づけられる。
二世皇帝2年(紀元前208年)、趙高の策謀によって胡亥は宮中に閉じこもり、趙高が秦朝の国政を掌握していた。その結果、公卿はほとんど朝見できず、関中では盗賊の横行が激増していた。馮去疾は李斯や馮劫らと共に「関東で盗賊が大量発生しているのは、民衆が過酷な軍役や労役、重税に耐えられないからです。阿房宮の造営を一時中止し、辺境の軍役を軽減するべきです」と胡亥に上奏した。しかし、胡亥は「盗賊を抑えられない上に先帝の政策を止めようとする。そんな者がどうして今の地位にあることができるのか」と糾弾し、馮去疾・李斯・馮劫の3人は獄に下されて余罪を追及された。馮去疾と馮劫は「将相は辱められず」と述べて自殺した[4]。
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脚注
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