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高森氏
日本の氏族 ウィキペディアから
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高森氏(たかもりし)は、日本国の武家。
- 筑後国山下郡高森氏:鎌倉時代 大友家支族 井桁の杏葉紋
- 豊後国高森氏:鎌倉時代 大友家支族 五七の桐紋
- 藤原姓伊澤氏族 : 陸前国宮城郡高森館
- 肥後国高森氏 : 阿蘇郡高森村より起こる阿蘇氏支族
高森氏
要約
視点
▪️筑後・豊後高森氏
祖:高森義統(高森右京進義統、鎌倉前期)
高森義統(たかもり よしむね)は、鎌倉時代前期の武士。豊後大友氏の祖・大友能直の五男である大友親直の子と伝わり、筑後国山下郡および豊後国大野郡を本拠とした高森氏の祖とされる[1]。
系譜:
高森義統は大友家の祖である大友能直 (1172年 – 1223年)の孫。大友能直五男・親直の子として誕生した。 建久年間(1190年頃)から承久年間(1220年代)にかけて、大友一族の分封政策の一環として筑後国山下郡(現・福岡県八女市・筑後市付近)を与えられた。山下郡は筑後川流域に近接し、南は肥後国に接する軍事・交通の要地であり、義統およびその後裔は筑後国衆の一角を担う。16世紀末の戦国時代、豊臣秀吉の九州平定後は、黒田氏の支配領域に組み込まれ、在地領主としての自立性は縮小。 その後豊後国衆の一角として豊後国(大野郡)に拠点を移す。江戸時代に岡藩(大分県竹田市・岡城)士族として存続した[1]。
祖父:大友能直(大友左近将監能直) 父:大友親直(大友能直 五男) 子:高森左衛門佐義鑑
孫:高森治部義長 後裔:高森三郎右衛門尉義統(豊後大野郡に所領を預かり「豊後高森氏」として展開)
年表:
- 1172年 – 大友能直誕生。のちの豊後大友氏の祖。
- 1190年代(建久年間) – 大友庶流の分封が始まり、親直が筑後国に配置される。
- 13世紀初頭(承久年間、1210~1220年代) – 高森右京進義統が筑後国山下郡に所領を与えられる。
- 13世紀中頃 – 義統の子孫が高森氏として国衆化。
- 戦国期(16世紀) – 高森氏は大友宗麟の軍事ネットワークに組み込まれ、筑後・豊後・肥後戦線に従属。
- 1587年(天正15年) – 安土桃山時代、豊臣秀吉の九州平定により、筑後国衆は黒田氏領に再編される。後に豊後国に移る(高森三郎右衛門尉義統)
- 1594年(文禄3年)豊臣秀吉に仕える中川家中川秀成がより7万石で豊後国岡に入封。
- 1600年(慶長5年)から東軍西軍の混乱期を経て中川家が江戸時代を統率、高森氏は岡藩に従属、城下町に移住。
- 1871年(明治4年)廃藩置県により岡県→大分県となり廃城し、公園とされる。高森氏は同岡藩時代の萱野氏(清和源氏 多田支流 岡藩奉行職 :中川家と婚姻親戚)や足立氏(本国武蔵 上野守 -岡藩武家)の婚姻親族として繋ぎ、竹田の城下町に現存する。
▪️肥後高森氏
阿蘇大宮司の将軍に高森氏の名見ゆ。起雲山禅曹洞宗含蔵寺を菩提寺とする。
- 高森惟直 : 高森城にて島津氏と抗戦。高森、坂梨、田上、西、北迫、渡辺ら、阿蘇家老は島津氏の和解工作に否定的であり、とくに高森惟直は大友義統と結んで抗戦した[2][3]。反島津派の甲斐家、高森家は大友氏に頼ったのである[2]。他方、仁田水氏と村山氏は島津氏との和睦に乗り出すが、その交渉中に高森氏により抹殺される[2]。坂梨、西、渡辺は自主派を選択し、阿蘇惟光を目丸山に隠した[2][4]。
- 高森惟居 : 高森伊予守。高森城主にして、惟直の息子。島津氏に降伏するものの、大友氏と諜報して、反撃。一時的に阿蘇家を回復させる。しかし、今度は島津氏が大軍で押し寄せ、1586年に戦死[5]。墓には高森殿の杉がある。惟居の娘・柏姫も島津兵に斬られ、その場所を柏塚と呼ぶ。龍風の墓は、競馬に御利益があるという[5]。
- 柏姫 : 高森惟居の長女、当時17歳。大友家臣の山村大学・山村小学兄弟に匿われていた。島津兵の追撃を防ごうとするが、これをなせず、柏姫は戦死。その遺愛の品である手鏡は、山村家菩提所の西蓮寺に所蔵されている[6]。昭和49年に柏塚の修復がなされ、柏月院釈尼麗珠信位の名が贈られている。
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関連項目
- 高森城
- 含蔵寺
- 高森殿杉
- 大友能直
- 大友氏
- 高森氏
- 筑後国衆
- 豊後
- 岡城
脚注
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