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高野常道
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高野 常道(たかの つねみち)は、江戸時代中期から後期にかけての儒臣。越後長岡藩士。一般的には高野余慶として知られる。
生涯
享保14年(1729年)、やはり越後長岡藩士で儒臣であった高野永貞(栄軒)の長子として誕生[1]。
常道は、伊藤仁斎を私淑し、兵法に通じ[2]、旧典に詳しかったという[1]。
8代藩主・牧野忠寛に信任され、忠寛の子・忠精と忠義(後の有馬氏保)の侍読となる[1]。以降、忠精に近侍した[1]。常道の人物は、松平定信より「泰助(常道の通称)は君子なり」と称えられる程であったとされる[3]。藩主に46年仕えたうちの24年は江戸勤番であった[1]。
隠居後も、常に四書五経を講じ、兵書古礼を説き、馬術、水練、弓術、砲術等を究めたという[4]。『由旧録』『軍用家訓』『軍中職掌考』その他多数の著作がある[5]。常道の著であるとされる『昇平夜話』に見える、「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意」とのくだり[6]は、『本佐録』の「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり」と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる[7]。
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その他
脚注
出典
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